カテゴリー: F1マシン

  • 幻のF1マシン:ホンダ RA099 “レースで披露できなかったポテンシャル”

    幻のF1マシン:ホンダ RA099 “レースで披露できなかったポテンシャル”

    ホンダF1が第3期参戦にむけて開発していた『RA099』は、テスト走行で好タイムを記録していたものの、そのポテンシャルをレースで披露することはできなかった。

    1998年、当時のホンダの社長だった川本信彦は“シャシー製造を含めたフルワークスによるF1参戦”を掲げ、イギリスにホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) を設立し参戦準備を進めた。

    ホンダF1はテクニカルディレクターにフェラーリやティレルで活躍したハーベイ・ポスルスウェイトを招聘し、彼が設計したマシン『RA099』の製作がイタリアのダラーラ社に委託された。無限のMF301HDを搭載したRA099は1998年12月をシェイクダウンを完了。テストドライバーにヨス・フェルスタッペンを迎えて1999年から本格的なテストを開始した。

    プレシーズンテストに参加したホンダ RA099は、ヘレスで3日間にわたりトップタイムをマークするなど順調な仕上がりをみせていた。しかし、同年4月、スペインのサーキットでテストを行っている最中、ハーベイ・ポストレスウェイトが心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。マイク・ガスコインの談話によると、急死後に関係者が所持品を調べたところ、システム手帳に「胸の痛みを医者に診てもらう」という予定書きが残っていたという。

    ホンダ側では人事変更などにより参戦計画が流動的な状況となっており、ハーベイ・ポストレスウェイトの死、そして、ホンダ社内に根強く残る慎重論などを背景に、結局ホンダはフルワークスによる参戦を取り止め、BARと組んでエンジンサプライヤーとして第3期F1活動を行うことを決定。BAR側ですでにシャシーは設計されており、RA099がレースデビューすることはなかった。

    ホンダ RA099の開発に携わり、現在、ホンダF1でレッドブルのチーフメカニックを務める吉野誠は、テストドライバーだったヨス・フェルスタッペンの息子が今、レッドブル・ホンダのF1マシンのステアリングを握っていることは感慨深いことだと語る。

    「残念な形にはなってしまいましたが、実はその際、RA099のテスト走行を担当していたのが、現在のレッドブルのドライバーであるマックス・フェルスタッペン選手のお父さん、ヨス・フェルスタッペンだったんです。当時まだマックスはとても小さかったのですが、お父さんのテスト現場をしばしば訪れていました。金髪のきれいな男の子でしたね。ヨスは現在もよくマックスのレースを見に訪れるので、時々私と当時の昔話をすることもあるんですよ。また、マックスも当時のことを鮮明に覚えているようで、彼がRA099に座っている写真をスマートフォンで見せてくれて、彼と一緒にそのころの話をしたこともあります。F1マシンに座ったということで、彼の中でもとても印象に残っていたようですね」と吉野誠は語る。

    「マックスが2014年に鈴鹿のFP1でトロロッソのマシンをドライブし、F1デビューを飾った際には、私は一ファンとしてその姿をTVで見ていました。ほかの好きなF1ドライバーを見るときとは全く異なる気持ちで、『ああ、あの子がF1に・・・』という特別な感慨とともに、彼を応援していましたね。おこがましいかもしれませんが、どこか自分の息子を見るような気持ちで見ていた部分もあったのかもしれません。ですから、今年彼と一緒に仕事ができると知ったときには本当にうれしかったんです。お父さんと仕事をしていたのに今度はその息子さんと仕事をすることになるということに、不思議な縁も感じましたね」

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  • ロス・ブラウンが設計に関わった名車5選 / F1特集

    ロス・ブラウンが設計に関わった名車5選 / F1特集

    F1の新マネージングディレクターに就任したブラウンのキャリアをゆかりの名車と共に振り返る。

    F1最高権力者の座に長年に渡り君臨してきたバーニー・エクレストンの勇退、そして新設された三頭体制マネージメントの一角を担うモータースポーツ担当マネージングディレクターにロス・ブラウンが就任するというニュースは世界中に驚きをもって迎えられた。

    かつてF1界に数々のイノベーションをもたらし、不世出のチームリーダーとして一時代を築いたロス・ブラウンは、現在はF1というスポーツ全体の舵取りを担う立場を担っている。

    1976年、当時ロニー・ピーターソンが在籍していたマーチへ入社し、新人の切削機械オペレーターとしてモータースポーツの世界に足を踏み入れたブラウンは、一介のメカニックから上級エンジニア、果てはチームプリンシパルへとヒエラルキーを駆け上ってきた立志伝中の人物だ。1990年代になると、彼はまずベネトン(後のRenaultF1チーム)でテクニカルディレクターを務め、その後フェラーリでも同職を務めると、ミハエル・シューマッハと共にF1界におけるあらゆる成功を手にした。ブラウンはシューマッハの通算7回のドライバーズチャンピオン獲得全てに影の立役者として関わった。また、その後はホンダF1チームとその後継となるブラウンGP、そしてメルセデスでチームプリンシパルを歴任した。

    デザイナー、戦術家、そしてチームリーダーとして類い稀なる慧眼を発揮してきたブラウン。ブラウンのF1キャリアの新章の始まりを祝し、これまで彼が設計に関わってきた5台の名車群を振り返ってみよう。

    1. ハース・ロ-ラ THL1/THL2
    ハース・ロ-ラ THL1/THL2
    短命に終わったハース(2016年シーズンから参戦しているハースF1チームとは無関係)が1985・1986年シーズンで残した成績には全く見るべきところがないが、ハース・ロ-ラ THL1とTHL2は、ロス・ブラウンとエイドリアン・ニューウェイという近代F1史における2人のカリスマが若き日に共同で設計に取り組んだ稀有な出自を持つマシンだ(ブラウンとニューウェイは共に空力開発担当で、チーフデザイナーは後年マクラーレン MP4/4の設計を手がけるニール・オートレイ)。ターボ全盛期の当時のF1にあって、ハースは終始エンジンの非力さと信頼性の低さに悩まされた(参戦初年度はハート製、2年目はフォード製)が、エンジン周りの諸問題さえなければそれなりに高い競争力を発揮できたはずだと評価する者は多い。当時ハース・ロ-ラをドライブしたパトリック・タンベイは「エンジンの非力さはともかく、シャシーは素晴らしい出来だった。チームは様々な難題に直面したが、運営は見事なものだったよ。今にして思えばドリームチームだね!」と回想する。

    2. ジャガー XJR-14
    ジャガー XJR-14
    1980年代後半にハースやアロウズといった中堅以下のF1チームで苦渋を味わったブラウンは、心機一転ジャガーに移籍し、1991年シーズンの世界スポーツカー選手権(WSC)のために奇抜さと美しさを併せ持つ名車XJR-14のデザインを主導した。当時F1で実戦使用されていたものと同一のフォード コスワース HBエンジンを搭載し「スポーツカーの皮を被ったF1」もしくは「2シーターのF1」とも呼ばれたXJR-14は、ブラウンのキャリアにおいても傑出した存在感を放つ名車と言えるだろう。当時XJR-14をドライブしてジャガーのWSCチームタイトル獲得に貢献したマーティン・ブランドル(現在はSky Sports F1プレゼンター)は「人車一体とは、あのマシンのことを言うのだろうね」と回想する。「XJR-14は地に張り付くように走り、ドライバーは常に自信を持ってドライブすることができた。全ての操作があるべき形でマシンの挙動に反映され、ドライブが非常に楽しいマシンだったよ。私はあのマシンで常に自分の限界にチャレンジしていたものさ。なぜなら、有り得ないようなスピードでコーナリングしても、まだマシンに余裕が感じられたからね。『あんな速度でも挙動が乱れないなんて信じられない。よし、次はもっと高い速度でコーナリングしてみせるぞ… 』と自分を奮い立たせたものさ。ほぼ毎ラップが自分自身とマシンへの挑戦だったのさ」

    3. ベネトン B195
    ベネトン B195
    もしこのリストにベネトン B194を選出していたら、英国のモータースポーツファンたちは我々を許してはくれなかっただろう。当時英国の期待を一身に背負っていたデイモン・ヒルを1994年シーズン最終戦オーストラリアGPで無情に(文字通り)弾き出し、ミハエル・シューマッハに初戴冠をもたらしたB194はヒルから1996年シーズンのF1ドライバーズチャンピオンタイトルを奪い去った憎きマシンだ。B194は当時違法とされていたトラクション・コントロール・システムを、1994年シーズンを通して使用していたのではないかという疑いの声も依然として大きく、アイルトン・セナの死と政治的疑惑に大きく揺れ動いた1994年シーズンのF1を象徴している1台だ。そのような議論を避けるため…ではないが、このリストではブラウンとロリー・バーンが設計したベネトン B195を挙げておこう。これは前年に引き続きシューマッハがドライブしてチャンピオンシップを席巻し、またジョニー・ハーバートが母国イギリスGPをはじめとした2勝を挙げたマシンだ。当時のライバルだったウィリアムズと同一仕様のRenault V10エンジンを搭載したB195は、1995年シーズン17戦中11勝を記録し、シューマッハに2年連続のドライバーズチャンピオンをもたらした。

    4. フェラーリ F2002
    フェラーリ F2002
    ミハエル・シューマッハを追う形で1997年シーズンにフェラーリへ移籍したブラウンはマラネロの技術部門再建に大きな貢献を果たし、2000年シーズンにはシューマッハにフェラーリ移籍後初・そしてフェラーリにとっては1979年シーズン以来となるドライバーズチャンピオンをもたらした。そして、シューマッハ&ブラウンの盤石コンビが最盛期を迎えようとしていた2002年シーズン、ブラウンはベネトン時代からの盟友ロリー・バーンと共にフェラーリ史において最も大きな成功を収めることになるF2002を設計する。2002年シーズンのF2002はまさに最強マシンとして君臨し、シューマッハとその僚友ルーベンス・バリチェロのドライブによって全19戦中15勝を達成。ドライバーズ&コンストラクターズ・チャンピオンシップを圧倒的な形で制覇した。

    5. ブラウンGP BGP 001
    ブラウンGP BGP 001
    ブラウンGPの活動期間はわずか1年シーズンだったが、その2009年シーズンではドライバーズ&コンストラクターズの両タイトルを獲得した。ブラウンは2008年シーズンの世界的な金融危機の煽りを受けてF1撤退を余儀なくされたホンダF1チームの資産を買い取るという大きな賭けに出た。2009年シーズン開幕までのごく限られた時間の中で、ブラウンはメルセデス・ベンツからエンジン供給の確約を取り付け、さらにはブラウンGP BGP 001のシャシー完成までこぎつけた。ブラウンGP BGP 001には2009年シーズンから施行された新たなテクニカルレギュレーションを巧妙に解釈したダブルディフューザーを採用。これは元々、ホンダのエンジニアたちがスーパーアグリのために開発したデザインだと言われている。バルセロナで行われた開幕前のプレ年シーズンテストにジェンソン・バトンのドライブでトラックデビューを果たしたBGP 001は、走り出しからいきなり他のマシンより1.5秒近くも速いタイムでサーキットを周回。しかもバトンがピットに戻ってきて最初に放った一言が「マシンのセットアップがおかしいよ」という不満だったというから傑作だ。こうして始まったブラウンGPの快進撃は、年シーズンが開幕を迎えても止まる気配はなかった。バトンがバリチェロを従えて開幕戦オーストラリアGPで1-2フィニッシュを飾ったシーンは、F1史における屈指の偉大なサクセスストーリーの象徴として今も記憶に刻まれている。そして、バトンはこのまま2009年シーズンを圧倒し、自身初にして唯一のF1ドライバーズチャンピオンを獲得した。また、ブラウンGPは同年シーズンのコンストラクターズタイトルも獲得し、バトンとバリチェロのコンビは2009年シーズンの全17戦中8勝をマークした。機を見るに敏なブラウンは、2010年シーズンを前にチーム株をメルセデスに売却。チーム名はメルセデスGPへと改められた。ブラウンはチームプリンシパルに留任したが、バトンはマクラーレン、バリチェロはウィリアムズへと去り、その後釜には2006年シーズン以来の現役復帰を決めたミハエル・シューマッハと当時5年目の年シーズンを迎えようとしていたニコ・ロズベルグが収まった。1年シーズンを幻のごとく駆け抜けていったブラウンGPの夢物語は、まさに空前絶後のストーリーだった。

  • F1史に名を残すトップデザイナー Part 2

    F1史に名を残すトップデザイナー Part 2

    F1史に名を刻む偉大なデザイナーたちを10名を紹介する企画の第2弾。

    これまでF1史において偉大な成功を収めてきたF1ドライバーたちの栄光の陰には、必ず優れたマシンが存在する。そのマシンを生み出すデザイナーは、チームにとって最も重要な成功への鍵を握る存在と言えるだろう。

    かのロータスの創始者で、自らもF1史における数々の革新的なデザインを生み出したコーリン・チャップマンはこんな言葉を残している。

    「レーシングカーの存在意義はただひとつ。レースに勝つことだけだ。そのマシンがレースに勝てないなら、それはすなわち時間と金、労力の浪費に他ならない」

    アルド・コスタ
    アルド・コスタ
    フェラーリとメルセデスにタイトルをもたらす
    現代F1界を代表するデザイナーのひとり、アルド・コスタはかつてフェラーリに在籍し、2012年からはメルセデスへ移籍。彼のマジカルな手腕でデザインされたシルバーアローはここ数年の年シーズンを席巻している。コスタはロリー・バーンのアシスタントとしてフェラーリに加入するとミハエル・シューマッハ黄金時代の立役者のひとりとして活躍。2006年からはデザイン部門のチーフへ昇格し、2007年には自らが中心となって設計したF2007でキミ・ライコネンをドライバーズ・チャンピオンへ導いたが、2011年にフェラーリを退職し、翌年にメルセデスへ移籍した。メルセデスでの彼は、テクニカル・ディレクターのボブ・ベルの主導のもと2013年シーズン用のW04をデザインし、チャンピオンマシンの基礎を築いた。

    パトリック・ヘッド
    パトリック・ヘッド
    サー・フランク・ウィリアムズと共に名門ウィリアムズを設立
    不屈の闘将サー・フランク・ウィリアムズと共にウィリアムズを設立したパトリック・ヘッドは自らのエンジニアとしてのキャリアのすべてをこのチームのために捧げ、27年間にも渡って同チームの技術部門を統率してきた。ウィリアムズとヘッドがウィリアムズ Grand Prix Engineeringを設立して2年目となる1979年、ヘッドがデザインを手掛けた名車FW07でクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を記録すると、翌1980年シーズンはアラン・ジョーンズが正常進化型となるFW07Bを駆ってドライバーズ・チャンピオンを獲得。1980年代中盤からは当時最強のホンダのF1エンジンを手にし、ナイジェル・マンセルとネルソン・ピケの二枚看板でGPを席巻した。その後、1990年代にヘッドがエイドリアン・ニューウェイという空力の天才をチームに引き入れると、ウィリアムズはさらなる成功を手にすることになった。ヘッドとニューウェイのコンビネーションは1991年から1997年にわたって続き、ウィリアムズは数多くのレースで勝利を記録したのはもちろん、4名のドライバーにチャンピオンをもたらした。ニューウェイの離脱後、ウィリアムズはかつてほどの技術的優位が保てなくなり、ヘッドは2011年シーズン末をもってチームの現場指揮から退いた。

    ゴードン・マレー
    ゴードン・マレー
    F1史上屈指の珍車ブラバム BT46B「ファン・カー」を発案
    ゴードン・マレーはF1史に残るきわめてラディカルな珍車を手掛ける一方、圧倒的な強さを誇る名マシンも生み出してきた鬼才だ。彼の名はブラバム BT46B「ファン・カー」によって一躍有名になったが、そのあまりに独創的なデザインは1977年スウェーデンGPただ一度のみの出走で使用禁止になったほどだ(ちなみに、このスウェーデンGPでBT46Bを駆ったニキ・ラウダは見事な独走で優勝を飾った)。1980年代後半にはマクラーレンへ移籍し、スティーブ・ニコルスやニール・オートレーと共にMP4/4をデザイン。ホンダ V6ターボエンジンを搭載したこのマシンは現代でも史上最強のF1マシンのひとつとしてその名を知られている。マレーはその後F1の現場を去り、1991年にはマクラーレンの市販車部門へ移籍。現在は、軽量なシティカーおよびスポーツカーの設計を手掛けるデザインオフィスを自ら経営している。

    エイドリアン・ニューウェイ
    エイドリアン・ニューウェイ
    ウィリアムズ、マクラーレン、レッドブルに数多くのタイトルをもたらす
    エイドリアン・ニューウェイはウィリアムズ、マクラーレンといった過去に在籍したチーム、そして現在籍を置くレッドブルのすべてのチームにタイトルをもたらしており、数多のレースで勝利を味わってきた。パブリック・スクールを放校処分になったものの(学園祭のコンサートで音響を担当していた彼が音量を上げすぎて講堂のステンドグラスを割り飛ばしたことが原因)、サウザンプトン大学で空気力学の学位を取得した彼は1980年代後半にマーチ F1に加入。その先進的な空力思想を盛り込んだマシンデザインで早くも高い評価を得るようになる。1990年からはウィリアムズへ移籍しパトリック・ヘッドとの共同作業のもと5度のワールドチャンピオン獲得に貢献。1997年にマクラーレンへ、そして2006年にレッドブルへ移籍して現在に至る。ニューウェイはチーム・プリンシパルのクリスチャン・ホーナー、そして若きセバスチャン・ベッテルと共に4年連続でレッドブルにワールドチャンピオンをもたらした。

    ルドルフ・ウーレンハウト
    ルドルフ・ウーレンハウト
    1950年代のF1を席巻したメルセデス“シルバーアロー”の設計者
    ロンドンに生まれたルドルフ・ウーレンハウトはドイツの大学で学んだ後にメルセデスへ入社し、入社5年目には早くもメルセデスのレース車両開発部門の責任者にまで登り詰めた俊才だった。彼は、「初代シルバーアロー」として知られるW25(1934年)、そして戦前GP史における最強のレーシングカーと謳われた名車W125(1937年)の生みの親として知られる。第二次世界大戦終結後、ウーレンハウトはメッサーシュミット戦闘機の燃料噴射装置を流用したW196Rでチャンピオンシップを席巻。モンツァやシルバーストンなどの高速サーキットでは4輪をすっぽりと覆う「ストリームライナー」と呼ばれるフルカウル・ボディを採用(当時のレギュレーションでは有効であった)したW196Rは、ファン・マヌエル・ファンジオに1954年および1955年のチャンピオンシップ2連覇をもたらした。

    関連:F1史に名を残すトップデザイナー Part 1

  • F1マシン列伝:レッドブル RB3 ニューウェイが描いた“青いマクラーレン”

    F1マシン列伝:レッドブル RB3 ニューウェイが描いた“青いマクラーレン”

    レッドブルの2007年F1マシン『RB3』は、エイドリアン・ニューウェイがレッドブル加入後に初めて手掛けたマシンであり、“青いマクラーレン”と揶揄されながらも、その後、常勝軍団へと変貌を遂げていく礎となる1台だった。

    スポンサーとしてF1に関与していたレッドブルは、2004年末にフォードからシャガー・レーシングを1ドルで購入してレッドブル・レーシングを設立。チーム代表には当時31歳の若さでクリスチャン・ホーナーが就任し、2005年からF1参戦を開始した。

    初マシンとなる『RB1』は旧ジャガーのR6がベースとなり、翌年の『RB2』にも引き継がれた。しかし、レッドブルは2006年にエイドリアン・ニューウェイがチーフテクニカルオフィサーとして加入。クリスチャン・ホーナーは、個人的にディナーパーティーを主催してマクラーレン離脱が決定していたニューウェイを口説き落とした。

    「私は常にエイドリアンのマシンのファンだったし、彼のキャリアを常にフォローしてきた。彼のマシンは芸術の域に達していた」とクリスチャン・ホーナーは語っている。

    エイドリアン・ニューウェイがレッドブルで初めて本格的に関与した『RB3』は、ゼロキールをはじめ多くの点でマクラーレン時代にニューウェイが手掛けた『マクラーレン MP4-20』に酷似しており、“青いマクラーレン”と揶揄された。

    だが、デザインだけなく、信頼性という点でも速さと脆さが共存した“ガラスのマクラーレン”と呼ばれたMP4-20の特性を受け継いだ。特にギアボックスの信頼性問題は深刻であり、F1エンジンをフェラーリからルノーへと変更した点も設計では不利に働いた。

    レッドブル RB3は、予選ではトップ10の常連となるなど、速さを見せるものの、前半戦の完走率は50%と信頼性は深刻な状態だった。だが、第10戦ヨーロッパGPでマーク・ウェバーで3位表彰台、チームメイトのデビッド・クルサードも5位入賞を果たすと信頼性の問題も一定の改善が見られるようになる。日本GPではウェバーが2位走行中に後続車(ベッテル)に追突されリタイアするなどの不運などもあり、最終的に24ポイントの獲得でコンストラクターズチャンピオンシップ5位にとどまった。

    レギュレーションの安定もあり、レッドブルの優勝は大幅なレギュレーション変更後の2009年までお預けとなるが、その後、常勝軍団へと歩みを進める礎となるマシンが『RB3』だった。

    レッドブル RB3 (2007年のF1世界選手権)レッドブル RB3 (2007年のF1世界選手権)レッドブル RB3 (2007年のF1世界選手権)レッドブル RB3 (2007年のF1世界選手権)レッドブル RB3 (2007年のF1世界選手権)レッドブル RB3 (2007年のF1世界選手権)

  • 幻のF1マシン:トヨタ TF110 “優勝を狙えるポテンシャルがあった”

    幻のF1マシン:トヨタ TF110 “優勝を狙えるポテンシャルがあった”

    トヨタが2010年のF1世界選手権にむけて開発していた“TF110”は実際にレースで走ることなく眠ることになった。

    トヨタF1チームは、2010年マシン『TF110』を完成させていたが、トヨタは2009年末にF1から撤退することを決定した。当時チーム代表を務める山科忠は「可夢偉をこのまま終わらせたくない」と涙を流しながら悔しさをにじませた。

    8年間の活動で1勝も挙げることができなかったトヨタトヨタF1チームだが、シニア・ゼネラル・マネージャーを務めていたパスカル・バセロンは、TF110には優勝を狙えるポテンシャルがあったと振り返る。

    「我々が開発を止めた時点で(新車の)ダウンフォースは20〜30ポイント多かった。我々は目標を上回っていた。TF109でさえ十分に表彰台を狙えた。我々のエアロダイナミクスの人間の多くが他のトップチームに移籍した。我々のダウンフォースの価値がかなり高かったことはわかっている」

    トヨタ TF110は非常に高いノーズを採用している。

    「我々は既存マシンで最も高いノーズをあえて提案する。このようにした場合のみディフューザーが完璧に働く」

    パスカル・バセロンはTF110は他の面も“急進的”だったと述べた。

    「初レースに向けて、ブロウン・ディフューザーのあるアップデートパッケージが進行中だった。なので、レッドブルと我々が最初だった」とパスカル・バセロンは語った。

    レッドブルがRB6に採用したブロウン・ディフューザーは、排気ガスをディフューザーに吹き付けることで、気流の整理し、ダウンフォースを増加させる仕組み。特にコーナーでのダウンフォースを最大限に引き出すべく、スロットルをオフにした状態でもディフューザーに排気ガスを継続して吹き付けられるようにエンジンマップが調整された。

    2010年のF1世界選手権で、レッドブル RB6は9勝を含む19回の表彰台を獲得し、チーム創設以来初となるドライバーズ選手権とコンストラクターズ選手権を制している。

    赤に塗装されたトヨタ TF110は、2010年のF1参戦を目指していたステファンGPがS-01という名称で走らせる予定であり、中嶋一貴とジャック・ヴィルヌーヴがシート合わせを実施していたが、ゾラン・ソテファノビッチ代表に財政能力はなく契約は破綻。その後、ヒスパニア・レーシングがTF110の使用契約を目指したが、それも財政的な問題によって破綻した。

    トヨタ TF110トヨタ TF110トヨタ TF110

  • F1マシンを彩ったタバコスポンサー Part 3

    F1マシンを彩ったタバコスポンサー Part 3

    F1マシンをかつて彩ったタバコ会社のスポンサーシップを特集第3弾。

    1968年にインペリアル・タバコのゴールドリーフがロータスのF1マシンを赤・白・金に塗装するまで、F1マシンは、ナショナル・レーシングカラーだった。その後はスポンサーカラーへの移行が進むことになり、何十年もの間、タバコ産業はスポーツへのスポンサーにおいて主役を演じていた。

    マールボロの親会社であるフィリップ モリスは、フェラーリを実質的に支援してはいるものの、2008年以降、タバコ広告はF1から完全に姿を消した。

    バークレー(Barclay)
    バークレー(Barclay)
    バークレーは、1983年にアロウズのスポンサーとして参入。メガトロンエンジン(BMWの市販バージョン)とゲルハルト・ベルガーによる成功を期待したが実現しなかった。1986年から1990年まではウィリアムズの共同スポンサーも務め、ネルソン・ピケが2回のコンストラクターズタイトルと1回のドライバーズタイトルをもたらした。

    マイルドセブン(Mild Seven)
    マイルドセブン(Mild Seven)
    日本のマイルドセブンは1994年にベネトンでキャメルの後を継ぎ、メインスポンサーに就任。ミハエル・シューマッハはすぐに2つのワールドチャンピオンを獲得した。ミハエル・シューマッハの離脱で成功は衰えるが、ルノーがベネトンが引き継ぐと、フェルナンド・アロンソが再び2つのワールドタイトルをもたらした。EUのタナコ広告禁止により、マイルドセブンは2006年末にF1を離れた。

    ラッキーストライク(Lucky Strike)
    ラッキーストライク(Lucky Strike)
    ブリティッシュ・アメリカン・タバコは1999年にF1に参入。クレイグ・ポロックとジャック・ヴィルヌーヴを中心とするチームは、ラッキーストライクをメインスポンサーとしてワールドタイトルに挑むが、ブリティッシュ・アメリカン・レーシング、略してBARはその年の1ポイントも獲得できず、555とラッキーストライクを宣伝するために左半分と右半分を異なるカラーリングで塗り分けたマシンは日本のファンからは「キカイダー」と呼ばれなど失笑された。チームをホンダに買収した2006年のF1ハンガリーGPでジェンソン・バトンが勝利を収めたが、ラッキストライクの文字は描かれていなかった。

    サムソン(Samson)
    サムソン(Samson)
    オランダのタバコメーカーであるサムソンは、1979年に元CIAで米海軍将校のドン・ニコルスという人物が設立したシャドウのスポンサーを務めてヤン・ラマーズにF1シートを与えた。数戦は通常のカラーリングだったが、ロングビーチで突然DN9Bにはライオンが描かれる。だが、競争力はなく、ヤン・ラマーズの最高成績は9位だった。

    スコール・バンディット(Skoal Bandit)
    スコール・バンディット(Skoal Bandit)
    スコール・バンディットは、噛みタバコの製造業者であり、1984年および85年にRAMのメインスポンサーとして登場。濃い緑色のカラーリングは印象的だったが、コース上のパフォーマンスは決して印象的ではなかった。だが、RAMは両方のシーズンで19回のリタイアを喫するなど散々な結果を残して撤退した。

    ・F1マシンを彩ったタバコスポンサー Part 2
    ・F1マシンを彩ったタバコスポンサー Part 1

  • F1マシン列伝:フェラーリ F2002 全レース表彰台“最強の跳ね馬”

    F1マシン列伝:フェラーリ F2002 全レース表彰台“最強の跳ね馬”

    フェラーリの2002年F1マシン『F2002』は、全17戦中15勝、全レース表彰台とい離れ業を成し遂げた“最強の跳ね馬”といっても過言ではない一台だ。

    1996年にミハエル・シューマッハが加入し、翌1997年にベネトンからロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)が加入して技術部門を再編したフェラーリは、2000年にはシューマッハの移籍後初、そして、チームとしては1979年以来となるドライバーズチャンピオンシップを獲得する。

    そして、ミハエル・シューマッハ、ロス・ブラウン、ロリー・バーンは、2002年にフェラーリi史において最も大きな成功を収めることになる『F2002』を設計する。

    フロントノーズは前年マシンF2001のアリクイのように急激に下がるものから緩やかに下がる形状に変更。また、2000年にマクラーレンが導入した廃熱パーツであるチムニーダクトをさらに発展させ、エギゾーストパイプと一体型にすることでサイドポンツーン上の空力改善に貢献した。前年よりも細く小さなチタン製ギアボックスを採用し、リヤタイヤ周りのエ空力に広い自由度が与えられた。

    2002年のF1世界選手権でフェラーリ F2002はまさに最強マシンとして君臨。F2002の投入は第3戦からだが、ミハエル・シューマッハは、17戦中11勝を挙げ、さらに全レースで表彰台という離れ業を達成し、7戦を残してF1ワールドチャンピオンを獲得するという圧倒的な強さをみせた。11勝は自身とナイジェル・マンセルが待つシーズン最多勝を更新。ファン・マヌエル・ファンジオに並ぶ5度目のF1タイトルとなった。

    また、チームメイトのルーベンス・バリチェロも4勝を挙げ、フェラーリとして全19戦中15勝を達成。ドライバーズ&コンストラクターズ・チャンピオンシップを圧倒的な形で制覇した。

    フェラーリ F2002 (2002年のF1世界選手権)フェラーリ F2002 (2002年のF1世界選手権)フェラーリ F2002 (2002年のF1世界選手権)フェラーリ F2002 (2002年のF1世界選手権)

  • F1史に名を残すトップデザイナー Part 1

    F1史に名を残すトップデザイナー Part 1

    F1史に名を刻む偉大なデザイナーたちを10名を紹介する企画の第1弾。

    かのロータスの創始者で、自らもF1史における数々の革新的なデザインを生み出したコーリン・チャップマンはこんな言葉を残している。
    「レーシングカーの存在意義はただひとつ。レースに勝つことだけだ。そのマシンがレースに勝てないなら、それはすなわち時間と金、労力の浪費に他ならない」

    これまでF1史において偉大な成功を収めてきたF1ドライバーたちの栄光の陰には、必ず優れたマシンが存在する。そのマシンを生み出すデザイナーは、チームにとって最も重要な成功への鍵を握る存在と言えるだろう。

    ジョン・バーナード
    ジョン・バーナード
    カーボンファイバー・モノコックをF1で初めて導入
    60年代後半に英国ローラ社でレーシング・エンジニアとしてのキャリアを開始したジョン・バーナードは、スポーツカーのライトバルブのデザインなどで経験を積んだ後、1970年代にはチャンピオンマシン『マクラーレン M23』の設計に関わり、やがてF1界におけるイノベイターとしての名声を確立した。マクラーレンがロン・デニス体制へ移行した1980年、バーナードはF1界で初めてカーボンファイバー・モノコックを導入。軽量性と高剛性を飛躍的に向上させると共に、マシン後部のカウルをタイトに絞り込んでリアウィングの効率を最大限に高める「コークボトル・ライン」と呼ばれる空力思想を取り入れた。彼がデザインを手掛けたマクラーレン MP4/1・MP4/2系シャシーは1980年代中盤にかけて最も魅力的かつ独創的なマシンとして知られ、ニキ・ラウダやアラン・プロストに複数回のタイトルをもたらした。1990年代にはフェラーリにおいて640(F1初のセミオートマチック・トランスミッションを搭載)の設計を手掛けるが、やがてチーム内部の政治的内紛に嫌気が差し離脱。その後在籍したベネトンでは、ロリー・バーンとの共同作業によって後のミハエル・シューマッハの成功に向けた礎を築いた。F1から身を引いたバーナードは、現在自身の自動車デザインオフィスを経営している。

    ロス・ブラウン
    ロス・ブラウン
    自らチームを率いてドライバーズ/コンストラクターズ両タイトルを制覇
    ロス・ブラウンは当然ながら非常に高いスキルを持つF1エンジニアだが、チーム全体の統率能力においても卓越した手腕を発揮した。近代F1のマシンデザインは、ただひとりの天才デザイナーの主導によって成し遂げられるものではなくなっている。空力やビークルダイナミクス、構造分析など各分野において分業化が進み、複数人のエンジニアたちが関わるため、その全体を正しい方向性へと導くテクニカル・ディレクターの存在が非常に重要となっている。ロス・ブラウンはテクニカル・ディレクターとして近年稀に見る大きな功績を残した人物であり、ベネトンやフェラーリに複数回にわたりワールドチャンピオンをもたらした後、2008年シーズンからはホンダF1のチーム・プリンシパルに抜擢された。翌2009年シーズン、ホンダ撤退後にブラウンGPへと改められた自分のチームを率い、ジェンソン・バトンに初タイトルをもたらすと共にコンストラクターズ・タイトルも制覇。メルセデスへの売却後もチーム代表として留任し、2014年シーズンを前に勇退。現在はF1の競技面を取りまとめるマネージングディレクターを務めている。

    ロリー・バーン
    ロリー・バーン
    「シューマッハ・ドリームチーム」の一翼を担う
    寡黙な南アフリカ人のロリー・バーンは極力メディアでの露出を避けようとしているが、彼こそがミハエル・シューマッハのベネトンとフェラーリ時代の成功における影の立役者だ。化学者だったバーンは正式な工学実習の経験を持たなかったが、1970年代末にトールマンへ加入。1986年にはその後継チームベネトンで、ゲルハルト・ベルガーのドライブによって自身の手掛けたマシンが初勝利を飾る。1990年代に入ると、ベネトンにはロス・ブラウンとミハエル・シューマッハが合流し、バーンと共に1994年シーズンおよび1995年シーズンのチャンピオンシップを席巻する。その後バーン/ブラウン/シューマッハの3人は優勝請負人として揃ってフェラーリへ移籍し、6年シーズンにおいて6回のコンストラクターズ・タイトルと5回のドライバーズ・タイトルという圧倒的な功績を残した。

    コーリン・チャップマン
    コーリン・チャップマン
    ロータスで数々の技術革新を生み出す
    コーリン・チャップマンが生涯追い続けてきた軽量化への揺るぎない信念は、1960年代から1970年代にかけて彼のチーム・ロータスに多大な成功をもたらした。「馬力をアップすれば直線は速くなる。だが、軽量化をすればサーキット全体の速さにつながる」― これもまた、チャップマンが残した名言のひとつだ。ロータスはストラット式サスペンション、モノコックとエンジンのストレスメンバー化、サイドポッド、ウィング、グラウンドエフェクト、更にはマシンを広告スペースとして利用するスポンサーシップの概念など、今日のF1にも綿々と繋がる数々の革新を成し遂げた。チャップマンはジム・クラーク、グレアム・ヒル、ヨッヘン・リント、マリオ・アンドレッティといった伝説のドライバーたちと共に60年代~70年代のF1で幾多の栄光を共にした。

    ジョン・クーパー
    ジョン・クーパー
    ミッドシップエンジンでF1黎明期に革新をもたらす
    ジョン・クーパーとその父であるチャールズがエンジンをマシン後部に配置するデザインを行ったのは、必要に追われてのことだったが、このデザインは1950年代当時まだ黎明期にあったF1のエンジニアリングを大きく飛躍させることになった。かの名手スターリング・モスがステアリングを握ったクーパー T-45は1958年アルゼンチンGPでマセラティやフェラーリといったイタリアの強豪勢を見事に破り、ミッドシップエンジン車としての初勝利を飾った。また、翌1959年シーズンおよび1960年シーズンにクーパーを駆ったジャック・ブラバムは2年連続でタイトルを獲得した。

  • F1マシン列伝:スーパーアグリ SA07 “世界を沸かせた純日本チーム”

    F1マシン列伝:スーパーアグリ SA07 “世界を沸かせた純日本チーム”

    スーパーアグリの2007年F1マシン『SA07』は、並み居る強豪とのバトルで世界を沸かせた1台だった。

    スーパーアグリF1チームは、元F1ドライバーの鈴木亜久里が発足。ホンダから技術面・資金面のバックアップを受け、2006年シーズン開幕戦よりF1参戦を開始した。

    初マシンとなる『SA05』は、メルボルン空港で展示されていたものや、ミナルディオーナーのポール・ストッダートから買い取った4年落ちのマシンであるアロウズ・A23のシャシーをベースとしたものであり、動く状態にするのも奇跡のような代物だった。

    そして、2007年に投入されたのが『SA07』。本田技術研究所と協力して製作された新型マシンは、ホンダF1の2006年マシン『RA106』に酷似。ホンダがRA106の“知的財産権”をPJUUに譲渡してそれをスーパーアグリが使用することでレギュレーション違反を回避しようとしたが、後にカスタマーシャシー問題に発展する。

    これに下位チームのスパイカーは黙っておらず、オーストラリアGPの予選直後に異議申し立てを行い、訴訟に踏み切った。そして、アメリカGP中のミーティングにて、バーニー・エクレストンから“下位3チームはシーズン終了後に受け取るであろうTV放映権利等、分配金をプールし、平等に分け合う”という調停案が提示された。最終的にはマクラーレンが“スパイゲート”事件によってチャンピオンシップから除外されたため、スパイカーも10位となり、通常どおりに分配金を受け取っている。

    スーパーアグリSA07の特徴として挙げられるのが“チキンウイング”。2000年代中盤のF1マシンは恐ろしいほど複雑な空力デバイスの宝庫で、スクープやフリップ、チムニーなど多種多様な空力パーツで表面が埋め尽くされていた。サイドポッド前方に配置されるスプリッターにも様々な形状や大きさが存在したが、なかでもスーパーアグリ SA07のマシンが備えていたスプリッターは若鶏のトサカのようにも見えた(かなり頑張って見る必要があるが)。スペインGPにエアロアップデートを持ち込んだ際に発行したプレスリリースは、その新型パーツを「新しいチキン」と表記しており、一部にちょっとした困惑をもたらした。

    2007年、スーパーアグリは開幕戦オーストラリアGPで佐藤琢磨がチーム初、そして唯一となる予選Q3進出を果たすと、第4戦スペインGPで佐藤琢磨が終盤に緊急ピットインをしたルノーのジャンカルロ・フィジケラに競り勝ってチーム初ポイントとなる8入賞を果たして1ポイントを獲得。さらに第6戦カナダGPでは佐藤琢磨がセーフティカー中に連続ピットインでタイヤ使用義務を消化し、終盤には最終コーナーで王者フェルナンド・アロンソを華麗にオーバーテイクして6位入賞。少ない予算の純日本チームの健闘は世界中を沸かせた。一時は低迷を続けるホンダF1をコンストラクターズポイントで一時上回るパフォーマンスをみせていたが、その後は他チームの開発レートに匹敵することができず、ランキング9位で終了。カスターマーカーとスポンサー問題によって運営が回らなくなったスーパーアグリに2008年5月6日に撤退。最終的にこの4ポイントがスーパーアグリとしての全ポイントとなった。

    スーパーアグリ SA07 (2007年のF1世界選手権)スーパーアグリ SA07 (2007年のF1世界選手権)スーパーアグリ SA07 (2007年のF1世界選手権)スーパーアグリ SA07 (2007年のF1世界選手権)

  • F1マシンを彩ったタバコスポンサー Part 2

    F1マシンを彩ったタバコスポンサー Part 2

    F1マシンをかつて彩ったタバコ会社のスポンサーシップを特集第2弾。

    1968年にインペリアル・タバコのゴールドリーフがロータスのF1マシンを赤・白・金に塗装するまで、F1マシンは、ナショナル・レーシングカラーだった。その後はスポンサーカラーへの移行が進むことになり、何十年もの間、タバコ産業はスポーツへのスポンサーにおいて主役を演じていた。

    マールボロの親会社であるフィリップ モリスは、フェラーリを実質的に支援してはいるものの、2008年以降、タバコ広告はF1から完全に姿を消した。

    ウエスト(West)
    ウエスト(West)
    80年代にザクスピードのメインスポンサーを務めたウエストは、マールボロが1996年末で離れたマクラーレン・メルセデスのメインスポンサーになり、2005年までとどまった。ミカ・ハッキネンは、1998年と1999年にドライバータイトルを2連覇。デビッド・クルサード、キミ・ライコネン、ファン・パブロ・モントーヤもウエストの露出に貢献した。ヨーロッパにおけるタバコ広告が禁止になった2005年7月31日にウエストはタイトルスポンサー契約を終了した。

    ロスマンズ(Rothmans)
    ロスマンズ(Rothmans)
    鮮やかな青/白のカラーリングは、ヨッヘン・マスとラウル・ボーセルが駆るマーチのスポンサーを務めたが、ノーポイントに終わり、ロスマンズは撤退。1994年にウィリアムズ・ルノーのスポンサーとしてF1に復帰する。その年のイモラでのアイルトン・セナの悲劇的な事故のマシンのラーリングだった。だが、1996年と1997年にデイモン・ヒルとジャック・ヴィルヌーヴがワールドチャンピオンを獲得して、スポンサーシップは多くの成功を収めた。

    ウィンフィールド(Winfield)
    ウィンフィールド(Winfield)
    ロスマンズの姉妹ブランドであるウィンフィールドは、1998年と1999年にウィリアムズのマシンを赤く彩った。まだ、1998年にルノーがF1から撤退し、型落ちのカスタマーエンジン(スーパーテック/メカクローム)によって低迷。コラボレーションも2年で終了する。

    ベンソン&ヘッジス(Benson & Hedges)
    ベンソン&ヘッジス(Benson & Hedges)
    ベンソン&ヘッジスは、ジョーダンのイエローのカラーリングは完璧にフィットした。ハイライトは、雨となった1998年のF1ベルギーGPでの1-2フィニッシュと、1年後にハインツ=ハラルド・フレンツェンがチャンピオン争いに絡んだことだ。ジョーダンは、チームがロシアのミッドランドの手に渡る2005年までイエローのカラーリングのままだった。

    キャメル(Camel)
    キャメル(Camel)
    印象的なブラック&ゴールドの後、キャメルのおかげで、ロータスは1987年から明るいイエローに変わる。アイルトン・セナは、ホンダを搭載した1987年に3勝を挙げたが、その後、チームはゆっくりと沈んでいく。キャメルは1990年までロータスオンスポンサーを務めていたが、その間、ティレル、ベネトン、そして、後にウィリアムズの共同スポンサーとなる。