カテゴリー: アイルトン・セナ

  • Netflix、アイルトン・セナの半生を描いたドラマを2022年に公開

    Netflix、アイルトン・セナの半生を描いたドラマを2022年に公開

    Netflixは、F1の伝説的なドライバーであるアイルトン・セナの8部構成のドラマを制作することを発表。公開は2022年を予定している。

    Netflixは、F1シリーズ『Drive to Survive』で成功を収めており、現在3シリーズ目が撮影が行われ、今週末のF1イタリアGPでフェラーリが密着取材を受けることになっている。

    今回発表された新シリーズは、アイルトン・セナがイギリスに移住してフォーミュラフォード1600シリーズでシングルシーターとしてのキャリアをスタートさせ、悲劇的な死を遂げた1984年5月のF1サンマリノGPでの旅を追った“フィクション”であると説明されている。

    このプロジェクトはセナ家も支援し、アイルトン・セナの幼少期の家の撮影も許可されているため、コース上での伝説だけでなく、個人的な側面も描かれる。

    「彼についてほんの数人しか知らないような話を伝えることができると発表できるのは非常に特別なことです」とアイルトン・セナの姉のビビアン・セナは語った。

    「セナファミリーは、このプロジェクトを完全にユニークで前例のないものにすることに取り組んでいます。そして、世界中にリーチできるパートナーとしてNetflixに勝るものはありません」

    アイルトン・セナのこのドラマは、英語とブラジル・ポルトガル語で撮影され、受賞歴のある制作会社Gullaneによって制作される。

    同社の創設者ファビアーノとカイオ・ガレーンは「セナは我々が必要とするタイプの人間です。国を代表し、夢のために戦い、多くの困難に直面した若者。セナはブラジルをひとつにします」と連名で述べた。

    Netflixブラジルのオリジナル国際制作ディレクターを務めるマリア・アンジェラ・デジーザスは「セナはサンパウロで旅を始め、世界を征服しました。すべてのファンに彼の刺激的な旅を届けられることを光栄に思います。アイルトン・セナには世代や境界にまたがるレガシーがあり、Netflixは190か国以上の加入者にドライバーの背景にいる男性の新しい姿で見せられることを誇りに思っています」

  • マックス・フェルスタッペン 「セナやシューマッハとの比較は好きではない」

    マックス・フェルスタッペン 「セナやシューマッハとの比較は好きではない」

    レッドブル・ホンダF1のマックス・フェルスタッペンは、自分をアイルトン・セナやミハエル・シューマッハと比較されることは好きではないと語る。

    先週、元F1ワールドチャンピオンのジェンソン・バトンは、マックス・フェルスタッペンに非常に感銘を受けているし、F1のレジェンドであるアイルトン・セナやミハエル・シューマッハを引き合いに出してその素晴らしさを語っていた。

    「あまりそのような話題は好きではない」とマックス・フェルスタッペンは語る。

    「もちろん、状況がうまくいっていると見ることができるかもしれないけど、僕はもっとうまくやれることに目をむけている。確実に改善し続けていなければならない。他のドライバーだって同じことをやっている。そこが僕が集中していることだ」

    マックス・フェルスタッペンは、F1ベルギーGPではメルセデスが優勢だと考えており、2列目のスターティンググリッドにどのチームが並ぶか興味深いとし、特にレーシング・ポイントに注目していると語る。

    「彼らはワンラップでとても速い。僕たちはワンラップでは彼らに注意しなければならない」とマックス・フェルスタッペンは語る。

    「僕たちはマシンバランスを優れたものにしていかなければならない」

  • ナイジェル・マンセル 「アイルトン・セナの死はF1自体を変えた」

    ナイジェル・マンセル 「アイルトン・セナの死はF1自体を変えた」

    元F1ドライバーのナイジェル・マンセルは、アイルトン・セナの死によってF1ははるかに安全なものになったが、同時にそれによって“ドライバーがヒーロー”だった頃のF1の魅力は失われてしまった。

    1992年のF1ワールドチャンピオンであるナイジェル・マンセルは、勇気と闘志あふれる攻撃的なスタイルで“ライオンハート”と呼ばれ、フェラーリ在籍中、イタリアのティフォシにはイル・レオーネ(Il Leone )と呼ばれた。

    1992年のF1ワールドチャンピオンであるナイジェル・マンセルは、ターボ時代やグラウンドエフェクトカーといった小さなミスが最終結果に大きな違い、さらには生命さえにも危険をもたらすリスクをはらんだ時代に生きてきた。

    ナイジェル・マンセルは、ほぼ40年経った今でも目の前で起こったジル・ヴィルヌーヴの致命的な事故の光景が鮮明に蘇ってくると語る。

    1982年にゾルダーで開催されたF1ベルギーGPの予選2日目の事故でジル・ヴィルヌーヴは命を落とした。ヨッヘン・マスの右リアタイアに乗り上げて宙を舞ったヴィルヌーヴのフェラーリは、前面から路面に叩きつけられて大破。ヴィルヌーブの身体はシートごとマシンから投げ出され、コースわきのフェンスに叩きつけられた。 懸命の蘇生処置も虚しく、その日の夜9時過ぎに死亡が確認された。

    ジル・ヴィルヌーヴの後ろを走行していたナイジェル・マンセルは、目の前で起こる事故を見ていた。

    「マシンが宙を舞って再び降りてくるのを見た。ジルがマシンから投げ出され、ゲートに寄り掛かっているのを見た。運転していて、彼があのクラッシュから生還する可能性はゼロであると思った。これまで起こった中で最もショッキングな出来事だった」とナイジェル・マンセルは Daily Mail に語った。

    「当時、ドライバーは定期的に命を落としていた。精神的に本当に苦しかった。ジルは僕のことを友人として受け入れてくれたし、僕たちは親しい仲間になって、彼は僕に良いアドバイスをくれていた」

    「ゾルダーで彼に起こったことを決して忘れることはないだろう。あの光景はずっと僕と一緒にいるだろう。80年代と90年代のF1はその点で厳しいものだった。自分がクラッシュしなくても、深刻な怪我をする可能性があった。ウォールがトラックに非常に近く、次に何を起こるかまったくわからなかった」
    そして、ナイジェル・マンセルは、1994年のアイルトン・セナの死が、良くも悪くもF1のすべてを変えたと考えている。

    「アイルトン氏の死は、モータースポーツ全体にとって大惨事だった。その後、はるかに安全になったし、それは良いことだ」とナイジェル・マンセルは語る。

    「しかし、トラックはあまりにも無菌になった。それ以前は、F1は素晴らしいスポーツであり、ドライバーはヒーローだった。すべてのミスが厳しく罰せられていた。勇気を持っていた人だけが時速200キロ以上でコーナーに突っ込んでいくことができた」

    「これは今日ではもう重要ではない。ドライビングエラーは影響を与えないので、もはや運転する勇気や能力に依存することはなあい。そして、それは残念なことだ」

    「ルイスならばあのような環境でもうまくやっていただろう。だが、時代を比較するのは非常に難しい」

    「当時は、非常に多くの優秀なドライバーが単純な事故に遭い、脚や腕などを骨折し、キャリアを継続できなくなった。今の優れたドライバーは酷いミスを犯しても、怪我はしない」

    ナイジェル・マンセルは、現在のF1マシンには身体的な挑戦が欠如していると主張。レース後のF1ドライバーはまるで“ヘアーサロンから出てきた”ように見えると苦言を呈した。

    「彼らはマシンの中でほとんど汗もかかない。レースの終了後は、まるでヘアーサロンから出てきたようばかりのようだ」

    「私の時代で美かったことはは、180戦を終えてもまだ生きていると自慢でき、素晴らしいキャリアだったと言えたことだ」

    ナイジェル・マンセルは、F1におけるルイス・ハミルトンの成功は、彼の才能だけでなく、メルセデスとの関係が大成功している結果でもあると考えている。

    「彼が非常に若い年齢から与えられた機会だ」とナイジェル・マンセルは付け加えた。

    「ミハエル・シューマッハと同じように、彼はその能力を実証するためにメーカーから信じられないほどのサポートを受けてきた。彼はマクラーレンで彼の最初の世界選手権に勝ち、その後チームを移籍してまた5つのタイトルを勝ち取った」

    「歴史は、彼を我々の国の歴史の中で最も偉大なドライバーとは言わないまでも、偉大なドライバーの一人として描写するだろう」

    「彼が引退する前までに7回目もしくは8回目の世界選手権に勝つことができない理由はない」

    それでも、ナイジェル・マンセルは、偉大なファン・マヌエル・ファンジオを彼の“歴代の偉人”リストの最上位に置く。

    「私は常にファンジオと言っている。ルイスも同意すると思うが、その時代に運転した人たちは真のヒーローでした。シートベルト、適切なヘルメット、適切なゴーグル、そして、時にはグローブもなかった」とナイジェル・マンセルは主張する。

    「彼らは足の間に燃料タンクがあった。もし事故に遭えば、生きるか死ぬかは五分五分だった」

    「だが、ルイスはうまくやっている。あのレベルの称賛を得た人は皆、多くのアドバイスを受ける。彼はちゃんと地に足をつけ、自分で決断し、それらに満足しなければならない」

  • 【動画】 アイルトン・セナ、ホンダF1撤退のニュースに拭った涙

    【動画】 アイルトン・セナ、ホンダF1撤退のニュースに拭った涙

    アイルトン・セナは、ホンダF1撤退のニュースに涙を拭った。

    1992年7月18日、朝日新聞の一面トップの見出しには『本田技研がF1撤退へ』の文字が大きく刷られた。記者にそれとなく話した川本信彦は、ホンダのF1休止が、朝日のトップニュースとして扱われるとは思ってもみなかった。

    それだけホンダのF1活動がレース運営だけでなく、広報活動も含めて、10年間で日本に深く根付いてきた証だった。

    そして、F1イタリアGPが開催されている9月11日、ホンダは東京・青山の本社で記者会見を開き、F1からの撤退を正式に発表した。

    ホンダF1に強い忠誠心を抱いていたアイルトン・セナは精神的にひどく落ち込んでいた。

    モンツァのパドックでホンダF1の撤退について質問されたアイルトン・セナは「今年に入って、そういった話を耳にしたことはあった」とコメント。

    「撤退話が噂であることを願っていたが、そうせざるを得ない現状もわかっていた。ホンダのF1に対する積極性と、築き上げてきた業績を考えれば、僕はホンダの一員として、ドライブできたことを誇りに感じている」

    「和光、栃木、東京のホンダ関係者の努力と業績に対して心からお礼を言いたい」

    そう語って、パドックへと小走りに向かったアイルトン・セナは両腕でそっと涙を拭った。

  • 悲劇と混乱に満ちた1994年シーズン 「神々がF1を見放した年」

    悲劇と混乱に満ちた1994年シーズン 「神々がF1を見放した年」

    アイルトン・セナ没後22年目を迎えた今、「神々がF1を見放した年」として今も人々の記憶に刻まれている1994年シーズンンを振り返る。

    1994年にF1で起こった一連の出来事は、その後のF1のあり方を永遠に変えてしまった。この1994年シーズンンは後世に語り継がれる熾烈なタイトル争いが繰り広げられた一方、政治的な混乱と対立がこのスポーツに暗い影を落とした。そして、F1に携わる人々が長らく忘れ去っていた悲劇が再び眼前に突きつけられた1年でもあった。

    1994年シーズンン開幕前、前年までF1を席巻していたABS(アンチロック・ブレーキシステム)やフルオートマチック・ギヤボックス、アクティブ・サスペンションといった電子制御装置は各チーム間の戦力均衡化を目論むFIAによって一斉に禁止された。さらに、1983シーズン以降撤廃されていたレース中の給油レギュレーションが11年ぶりに復活。1980年代のF1シーンを牽引したアラン・プロストは1993シーズンの王座と共に引退し、プロストの宿敵であったアイルトン・セナはウィリアムズへ移籍しデイモン・ヒルと新たにパートナーを組む事となった。打倒セナの急先鋒と目されていたドイツ人のミハエル・シューマッハは引き続きベネトンに残留して1994年シーズンンの開幕を迎えた。

    開幕戦ブラジルGPと日本のTIサーキット英田で開催された第2戦パシフィックGPではミハエル・シューマッハが連勝した一方、アイルトン・セナはまさかの連続リタイヤ・無得点で開幕2戦を終える。そしてヨーロッパラウンドの幕開けを告げる第3戦サンマリノGPの週末、世界は恐ろしいほどの喪失感を味わうことになる。

    悲劇の週末は、金曜のプラクティスから始まった。ヴァリアンテ・バッサ・シケインでルーベンス・バリチェロのジョーダンが時速約225km/hで宙を飛びながらコースサイドの金網に激突。この時は幸いバリチェロの命に別状はなかったが、翌土曜の予選セッションでシムテックを駆る新人ドライバー、ローランド・ラッツェンバーガーが高速のヴィルヌーブ・カーブで大クラッシュを引き起こす。ルーキーながら快活な人柄で周囲に親しまれていたオーストリア人ドライバーは、この事故によって命を落としてしまった。もはやとどまるところを知らぬかのようにさらなる悲劇の連鎖は続き、日曜の決勝レースでは誰も信じたくないような出来事が起こってしまう。決勝レース7周目、タンブレロ・コーナーでクラッシュしたアイルトン・セナも帰らぬ人となってしまったのだ。

    「私にとって、セナはタツィオ・ヌボラーリやジム・クラークと並ぶ伝説的な存在だ。今でもアイルトンという名を発するだけで胸が熱くなる。こんな気持ちにさせるドライバーは稀有だよ」
    マレー・ウォーカー(元F1コメンテーター)

    1982シーズン以来となるF1での死亡事故、しかもそれが2日連続で起こってしまったという事実に、世界は戦慄した。

    第4戦モナコGPは、F1界が痛ましい悲しみに暮れる中始まった。このスポーツに携わる者すべてがいまだサンマリノでの悲劇の週末を受け入れられないままであったはずだ。そんな中始まった最初のプラクティスセッションで、カール・ヴェンドリンガーが駆るザウバーは海沿いのヌーベル・シケインでバリアに激突する。この若手オーストリア人ドライバーは幸いなことに命を落とさずに済んだが、3週間もの間昏睡状態に陥ってしまう。

    「セナを失った当時のF1では、すべてが異常な緊張をはらんでいて、ナーバスきわまりない状態でした」ジェームズ・アレン(F1ジャーナリスト)

    「あのシーズンは非常にピリピリした緊張感が支配した1年でした。そのムードを決定づけたのはまちがいなくあのイモラでの週末です」と語るのは、F1ジャーナリストでありTVコメンテーターも務めるジェームズ・アレン。

    「シーズンの開幕前にも、ドライバーエイド撤廃を巡る政治的な混乱や対立が相次いでいました。その前の2シーズンはウィリアムズがハイテクを武器にした圧倒的な強さでF1を席巻していましたからね。ベネトンのチーム代表を務めるフラビオ・ブリアトーレとFIA会長のマックス・モズレーは、セナの死後も水面下で対立を続けていました。1994年シーズンンはすべてが異常な緊張をはらんでいて、ナーバスきわまりない状態だったんです」

    アイルトン・セナ亡き後のF1を牽引する大役を担ったのは、若き天才ミハエル・シューマッハ。彼はシーズン序盤から大量のポイントリードを築いて一気に初戴冠へと突き進むかと思われたが、夏に行われたイギリスGPで起きたドラマと陰謀がタイトル争いの行方を一気に混迷化させることになる。

    シルバーストンでのイギリスGPを迎えるまでに、ミハエル・シューマッハは37ポイントの大差でチャンピオンシップをリードしていた。シルバーストンでの予選ポールを獲得したのは、地元大観衆の声援を受けて奮起した英国人デイモン・ヒル。決勝スタート前のパレードラップでヒルを何度も追い越して戦列をリードしてしまうという不可解な行動に出たシューマッハは、度重なる警告とピットストップペナルティの指示も無視。ルールを著しく侵したと判断され、決勝2位の結果を剥奪されると共に2レース出場停止処分を言い渡されてしまう。

    ベネトンは本来禁止されているはずのデバイスの搭載から給油システムの不正改造にいたるまで、あらゆる面で疑惑の対象となった。

    デイモン・ヒルはイギリスGPを勝利し、母国GP初優勝を飾る。これは、彼の偉大な父である故グレアム(1962・1968年ワールドチャンピオン)ですら一度も達成できなかった偉業だった。だが、1994年夏のF1界の話題をさらったのはヒルの躍進ではなくコース外で展開された政治的混乱だった。ドイツGPの決勝中、ヨス・フェルスタッペン(レッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペンの父)のマシンがピットストップ中に炎に包まれるという事故がきっかけとなり、ベネトンは本来禁止されているデバイスの搭載から給油システムの不正改造にいたるまであらゆる面で疑惑の対象となった。ベネトンとFIAの対立が激化する中、ホッケンハイムで行われたドイツGPではゲルハルト・ベルガーがフェラーリにとって3年半ぶりとなる感動的な勝利を飾った。

    当時、Eurosportでコメンテーターを務めていた元ドライバーのジョン・ワトソン(GP通算5勝)は1994年シーズンンを次のように振り返っている。「ベネトンのチームクルーたちはルールブックを自分たちに有利に解釈してしまうのが得意だったし、ミハエルもそれを最大限に活かそうと考えていた。彼の抜け目なさは当時のF1ドライバーたちの中でも際立っていたよ。当時最強と思われていたルノー・エンジンを搭載したウィリアムズに対し、パワーで劣るフォード・エンジンを積んでいたベネトンのクルーたちは『バッドボーイズ(悪ガキども)』とあだ名されていたね。いっぽう、FIAとモズレー会長はデイモンとウィリアムズにチャンピオンシップを勝たせようとあからさまに肩入れしていたように見えた」

    自らが行った不正行為により、ベネトンは手痛いしっぺ返しを食らうことになる。ベルギーGPではレース後に行われた車検においてスキッドブロック(マシン底面に装着が義務づけられた板状パーツ)の厚みが不足しているとしてミハエル・シューマッハの優勝は剥奪され、更にシルバーストン後に下された2レース出場停止処分の確定により、シューマッハはイタリアとポルトガルの2GPを欠場。シューマッハはヨーロッパラウンド最後の一戦となるヘレスでのスペインGPで復帰し、さっそく優勝を飾るが、チャンピオンシップ・ポイントではヒルがシューマッハのすぐ背後に迫る猛追を見せていた。そして、降雨に見舞われフルウェットレースとなった鈴鹿での日本GPにおいて、ヒルは一世一代の勇猛果敢なドライブを披露する。

    「デイモンは鈴鹿で見せた自らのパフォーマンスで、懐疑論者たちを沈黙させたのさ」ジョン・ワトソン(元F1ドライバー)

    「あの日本GPでのデイモンのドライブは神懸かっていたよ」とワトソンは回想する。「最前列からレースをスタートする時のヒルは抜群の強さを発揮する。鈴鹿ほどの難関コースであっても、マシンのセットアップさえ完ぺきに決まっていればあのような難しいコンディションでも際立ったパフォーマンスを見せてくれるんだ。デイモンは鈴鹿で見せた自らのパフォーマンスで、懐疑論者たちを沈黙させたのさ」

    かくして、タイトル決定の場は最終戦アデレードの市街地コースに持ち越された。政治的な混乱の結果、デイモン・ヒルに対するミハエル・シューマッハのポイントリードはわずか1点にまで縮まっていた。ただならぬ緊張感が張りつめる中で決勝レースが進行していく。36周目にトップを走るシューマッハがわずかにコースをはみ出し、それを見逃さなかったヒルは次のコーナーに向けてのろのろとアプローチするシューマッハのインサイドへ猛然と飛び込む。2台は激しく接触し、シューマッハのマシンは片側2輪が浮き上がったかと思うやいなや路面に叩き付けられ、そのままコースサイドの壁にぶつかって停止した。手負いの状態で走り続けてようやくウィリアムズのピットまで戻ったヒルだったが、サスペンションが修復不可能なまでに損傷しておりリタイヤを余儀なくされる。この瞬間シューマッハの初タイトル獲得が確定し、ヒルはチャンピオンシップ2位に終わった。

    「バーニー・エクレストン流に言えば『シューマッハは自分の仕事をやり遂げただけだ』ってことだろうね』ジョン・ワトソン(元F1ドライバー)

    「周囲の状況を冷静に判断して行動に移してしまうミハエルも凄いが、あの局面においても愚直なまでにレーシングドライバーらしさを貫いたデイモンも大したものだよ。デイモンは決して市街地コースに強いドライバーではない。だが、目の前のドライバーが突然ミスしてスピードダウンするのを見れば、本能的にそのインサイドに飛び込んでしまうのはレーサーとしてはごく当たり前の行動だ。しかし、そうしたレーサーの本能すら逆手に取ってしまうことができるのがミハエルのミハエルたる所以さ。1ポイント差で追いかけてきているライバルに対してわざと接触を誘い、両方のマシンがリタイヤすればミハエルのタイトルは自動的に確定するんだからね。観ている方はなんともすっきりしない結末だが、バーニー・エクレストン流に言えば『彼は自分の仕事をやりとげただけだ』ってことなんだろうね」

    確かにシューマッハは自分の仕事をやり遂げた。このシーズンに8勝を挙げたミハエル・シューマッハは史上初のドイツ人チャンピオン(当時)に輝き、悲劇と絶え間ない政治闘争に塗り固められた混乱のシーズンはようやくその幕を閉じたのであった。

    この1994年最終戦オーストラリアGPを勝利したある古豪ドライバーの名を憶えているだろうか? このアデレード市街地での一戦を制したドライバーこそ、1992年ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセル。マンセルは1992シーズン終了後に契約交渉のもつれからウィリアムズを放出され、その後は米国のCARTシリーズを戦っていたが、セナを失いタイトル争いで苦戦を続ける古巣を助けるために米国から舞い戻ったのだ。

    「あのアデレードでのレースは文句無しにドラマチックでした」と回想するのはジェームズ・アレン。「あのレースでもうひとつ見逃してはならない興味深いポイントは、ナイジェル・マンセルの見事な復活劇です。ナイジェルがウィリアムズへ復帰するという噂さえ立っていない頃、僕はちょうど5月末に行われるインディ500の取材のために米国でナイジェルと一緒にいました。そんな時、パトリック・ヘッド(ウィリアムズのチーム首脳)から電話がかかってきて、ナイジェルにウィリアムズへ復帰してほしいというオファーが届けられたんです。それからすぐにナイジェルの気持ちはF1へと切り替わり、その年の最終戦アデレードでは優勝してみせたのです。ただでさえ異常なほどエモーショナルで目まぐるしいドラマに満ち溢れたシーズンでしたが、ナイジェルが最後にさらなるドラマを付け加えてくれたんです」

  • アイルトン・セナのホンダF1への忠誠心がウィリアムズ移籍を阻んだ

    アイルトン・セナのホンダF1への忠誠心がウィリアムズ移籍を阻んだ

    アイルトン・セナは1992年にウィリアムズと契約を結ぶ準備ができていたが、ホンダに対する忠誠心のためにマクラーレンにとどまった。

    1992年のF1世界選手権では、ナイジェル・マンセルが当時の最強マシン『FW14B』で悲願のF1ワールドチャンピオンを獲得した。だが、マネージャーを務めていたジュリアン・ジャコビは、土壇場でのセナの心変わりがなければ、1992年にマンセルはウィリアムズをドライブしていなかったと語る。

    アイルトン・セナは、1988年、1990年、そして、1991年にマクラーレン・ホンダでF1ワールドチャンピオンを獲得した。

    しかし、1991年にエイドリアン・ニューウェイが加入し、ルノーのターボエンジンにセミオートマティックトランスミッションを備えたウィリアムズ FW14はマクラーレン・ホンダに対してトータルでは優れたパフォーマンスを発揮していた。

    1992年にアイルトン・セナがウィリアムズに加入することは理にかなっているように見えたが、ジュリアン・ジャコビは、アイルトン・セナのホンダF1への忠誠心によってそれは実現しなかったと明かす。

    ジュリアン・ジャコビは、運命の分かれ目となった1991年のF1ベルギーGPについて Beyond The Grid に語った。彼はマクラーレンとウィリアムズの2つの契約書をブリーフケースに忍ばせてサーキットに向かっていた。

    「アイルトンはウィリアムズに行きたかったが、彼はホンダF1に忠実だった」と現在はセルジオ・ペレスのマネージャーを務めているジュリアン・ジャコビは言った。

    「彼の基本的な本能はもっと早くにウィリアムズに行くことだったが、彼は特にホンダの社長であった川本(信彦)氏に特に忠実だった。基本的に自分たちとアイルトンを1988年にマクラーレンに連れてきたのはホンダだったであり、彼らは共に3つのチャンピオンシップを獲得していたので非常に親しかった」

    「だが、彼が3回目のチャンピオンを獲得した1991年の後半でさえ、アイルトンは以前のホンダではないと本能的に感ていたし、将来について心配していた」

    「1991年に、アイルトンのために2つの契約書を抱えてスパに向かったことを覚えている。1つはマクラーレン、もう1つはウィリアムズとの契約書だった。アイルトン自身は自分がウィリアムズに行くであることを知っていたし、我々は両方の契約書に署名する準備ができていた。私は日曜日の朝に彼がウィリアムズの契約書にサインするだろうと考えていた」

    「だが、彼は日本で夜通し川本氏と話をして、日曜日の朝に来て『もう一年残留する』と言った。それで彼は92年もマクラーレンに残留した」

    「だが、彼は92年にウィリアムズに行っていた可能性があったし、そうなれば、ナイジェルはそこにいなかっただろう。マンセルがチャンピオンシップを獲得した年だ。だが、アイルトンが手を引いたことで、マンセルはとどまった…」

    ホンダは1992年末でF1から撤退することを決定。マクラーレンはその後フォードエンジンに切り替えた。

    アイルトン・セナはこの動きに“精神的にひどく落ち込んでいた”とジュリアン・ジャコビは明かし、前年のアラン・プロストと同じように1993年にF1活動を1年休止することを検討していたという。

    「ホンダはF1撤退を決めたが、彼らがアイルトンに伝えたのは3か月前だったと思う。ロン(デニス/マクラーレン代表)よりも先に伝えていた。彼は精神的にひどく落ち込んでいた」

    「我々は1993年のために別のシートを見つけなければならなかった。彼が1993年にドライブしないことにどれくらい近づいていたか? かなり近づいていたというのが答えだ」

    1993年までマクラーレンに残留したアイルトン・セナは1994年にウィリアムズに移籍。しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテクはこの年のルール変更により禁止され、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイが空力を重視した新車FW16は非常に神経質なマシンに仕上がっていた。

    そして、1994年5月1日。第3戦サンマリノGPでアイルトン・セナは後に悲劇的な事故死を遂げることなった。

    アイルトン・セナ Ayrton Senna

  • アイルトン・セナ、F1初勝利から35年 (1985年F1ポルトガルGP)

    アイルトン・セナ、F1初勝利から35年 (1985年F1ポルトガルGP)

    アイルトン・セナは、今から35年前となる1985年4月21日に開催されたポルトガルGPでF1初勝利。F1史上64人目のウィナーとなった。

    1984年にトールマンからF1デビューを果たしたアイルトン・セナは、第2戦南アフリカGPで6位に入り初入賞。大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは予選13位から追い上げ2位でフィニッシュし、自身とトールマンに初の表彰台をもたらした。

    シーズンの途中に翌年からのロータス移籍を発表するが、トールマンと3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局、ロータスとアイルチョン・セナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現した。

    名門ロータスに移籍したアイルトン・セナは、エストリル・サーキットで開催された第2戦ポルトガルGPで自身初のポールポジションを獲得。豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、2位のミケーレ・アルボレートに1分2秒978の大差を付け、3位以下を全て周回遅れにする独走でデビュー16戦目にして初優勝を飾った。ファステストラップも記録する完全勝利で、「雨のセナ」の片鱗も見せた。25歳31日での勝利だった。87年まで在籍したロータスでは6勝を挙げた。

    その後、マクラーレン・ホンダに移籍したアイルトン・セナは、1988年、1990年、1991年にF1ワールドチャンピオンを獲得。1994年のサンマリノGPで事故死した後もモータースポーツ界だけではなく、スポーツ界のアイコン、そしてレジェンドとなった。また、セナの母国であるブラジルでは国の英雄として讃えられている。162戦(161スタート)での通算成績は41勝、80回の表彰債、65回のポールポジション、19回のファステストラップ、生涯獲得ポイントは614ポイント。

    初勝利を挙げたマシン『ロータス 97T』は、F1では初のバージボードを使用。バージボードはフロントホイールとサイドポッドの間に位置しており、タイヤ周りの空気を清流させる効果を果たした。この方法は現在のモータースポーツにも未だに存在し続けている。

    現在、アイルトン・セナと共に勝利を収めたロータス 97Tは、Classic Team Lotusが保管、メンテナンスを行っている。

    Classic Team Lotusのマネージングディレクターであり、ロータス・カーズの創設者コーリン・チャップマンの息子クレイブ・チャップマンは「チーム・ロータスにとって、アイルトンがチームに加入したのはとても意味があった。父であるコーリン・チャップマンが亡くなった後、チームはパニックになっていたが、アイルトンのテクニカルアビリティとドライビングスキル、そして何よりも高いモチベーションは、チーム全体を奮い立たせ、F1に挑戦し、成功を収めることができた」と語った。

    英ロータス・カーズは4月21日、アイルトン・セナがF1で初優勝を果たしてから35周年を迎えたことを記念して、4枚の写真を公開。この写真は、日本の正規インポーターであるエルシーアイがロータスに特別な許可を得て、世界に先駆けて最初にリリースされたものになる。

    アイルトン・セナアイルトン・セナ 1985年 F1ポルトガルGPアイルトン・セナ 1985年 F1ポルトガルGP 表彰台アイルトン・セナ ロータス 97T

    エルシーアイの代表である高橋一穂もアイルトン・セナの大ファン。レースで被るヘルメットはセナのヘルメットデザインをベースに作られたもの。そんな高橋一穂が、セナの思い出を振り返った。

    「セナは勿論、努力も人一倍していたに違いありませんが、持って生まれた素質と才能がとにかく素晴らしかった。それは特に雨の中のレースで際立っていました。一番印象的だったのは鈴鹿のレースで雨が降ってきた時、宿敵プロストに対し圧倒的に速かった場面です。雨のコンディションは中々練習するタイミングが無いうえに、雨の降り方も一定ではなく路面も一定していない為、瞬間瞬間の状況の変化に対応する能力が全てであり、この感覚、能力は今でもセナに勝るドライバーは居ないと思います。もし、あの事故さえ無ければと 今でも残念で仕方ありません」

    今でも世界中で愛されている、アイルトン・セナ。皆様のたくさんの思い出と共に、これからもレジェンドとして永遠に輝き続ける。

  • F1回顧録:ルーベンス・バリチェロ 「セナの棺を担いだ記憶がない」

    F1回顧録:ルーベンス・バリチェロ 「セナの棺を担いだ記憶がない」

    元F1ドライバーのルーベンス・バリチェロは、1994年のアイルトン・セナの葬式で棺を担いだ記憶がないと語る。

    1994年、ルーベンス・バリチェロはジョーダンで2年目のF1シーズンを迎えていた。開幕戦で4位フィニッシュを果たし、岡山国際サーキットで開催された第2戦パシフィックGPでF1初表彰台を獲得するなど、頭角を現していた。

    だが、第3戦サンマリノGPでは初日に激しいクラッシュを喫してレースを欠場している。これはローランド・ラッツェンバーガー、アイルトン・セナの死を含めた一連の事故の最初のものだった。

    「クレイジーな週末だった」とルーベンス・バリチェロは回想する。

    「あの週末に多くの悪いことが起こり、あの週末には多くの謎があった」

    「ラッツェンバーガーとセナの死だけではない。(JJ)レートと(ペドロ)ラミーとのレーススタート時の悪いアクシデントがあり、ピットストップでのメカニックのアクシデントもあった。とんでもない週末だった」

    ルーベンス・バリチェロはヴァリアンテ・バッサ・シケインで時速225キロで縁石に乗り上げ、空中に飛び上がった。マシンはタイヤバリアの上端と金網に衝突し、バリチェロはその衝撃で気を失った。マシンはノーズから地面に垂直落下した後に数回横転し、裏返しになって停止。バリチェロは花を骨折した。

    「僕が言えることは、予選に行く直前に、ヴァリアンテ・バッサを5速ギアで行くことができると言ったことを覚えている。それは、4速ギアでリミッターに当たっていたので、それしか考えていなかった」

    「5速で行ける言った。そして、その直後に『おっと無理だ』と聞くことができる。でも、どうすることもできなかった。すでに大クラッシュしていた」

    「クラッシュしたときは5速ギアだった。それはデータで確認できる。90Gと舌を飲み込んだという事実から、頭に受けた衝撃を想像できる」

    「僕は20日間記憶を失った」とルーベンス・バリチェロは続けた。

    「アイルトンの葬儀に行ったことを思い出せない・・・自分が彼の棺に運んでいる写真を見たけど、それを思い出すことができない」

    「本当に悲しい瞬間なのでポジティブなことではあるけどね・・・それは10日後だったし、鼻の骨折などにまだ少し苦しんでいた」

    英国に戻った直後、ルーバンス・バリチェロがシルバーストンでF1マシンに戻ってテストを行った。

    「僕は『大丈夫、テストがある』と言った。シルバーストンだった。新しい車とそれは新しい時代だった」

    「ぺしゃんこになって、再び自分を治そうとしていた。再び自分を取り戻せないならそれまでだし、あきらめて家に帰って、他の何かをした方がいい」

    「当時、僕はシルバーストンで自分の記録を更新したし、それが自分がやりたいことだと知っていた」

    ルーベンス・バリチェロは、1997年にスチュワートに移籍した後、2000年にミハエル・シューマッハのチームメイトとしてフェラーリに加入。フェラーリで6シーズンを過ごした後、ホンダ、ブラウンGPを経て、ウィリアムズでF1を引退した。

    しかし、ルーベンス・バリチェロはキャリア最後の年にマクラーレンでに移籍する可能性があったという。

    「9月の期間の前にウィリアムズとの契約にサインしていました。スパだった」とルーベンス・バリチェロは振り返る。

    「その後、マクラーレンがやってきた。契約は良かったし、お金もさらに良かったけど、契約できなかった」

    「ルイスのチームメイトになっていたかもしれない。ミハエル(シューマッハ)のチームメイトになり、次にルイスのチームメイトになっていたら凄いことだっただろうけど、ウィリアムズとすでに契約していたし、僕はそうするつもりだった」

    ルーベンス・バリチェロは2011年末にF1を引退。322戦を戦って合計11勝し、2002年と2004年にはチャンピオンシップを2位で終えている。

  • F1見聞録:アイルトン・セナはシューマッハが脅威になると理解していた

    F1見聞録:アイルトン・セナはシューマッハが脅威になると理解していた

    元F1チーム代表のフラビオ・ブリアトーレは、アイルトン・セナは早くからミハエル・シューマッハが特別なものを持っていることに気づき、心理戦を仕掛けていたと明かす。

    1991年にメルセデスが用意した持参金でジョーダンから第11戦ベルギーGPでF1デビューを果たしたミハエル・シューマッハは予選7番手に入り、決勝では0周リタイアに終わったものの、F1関係者に強い印象を与えた。

    バーニー・エクレストンの根回しでベネトンがメルセデスが接触してミハエル・シューマッハ獲得に動き、ジョーダンは訴訟を起こして抵抗したが、結果的にロベルト・モレノとトレードする形でベネトン移籍が決定した。

    当時ベネトンのF1チーム代表を務めていたフラビオ・ブリアトーレは「アイルトン・セナは追加の問題だった」と語る。

    「彼はモレノの友人であり、シューマッハのコミットメントを止めたかった。なぜなら、アイルトンはシューマッハが非常に特別であることを理解していたからだ」

    アイルトン・セナは、ミハエル・シューマッハに敬意を示すよう求めたが、シューマッハはそれに応じなかったとフラビオ・ブリアトーレは語り、それはまさに今、マックス・フェルスタッペンとシャルル・ルクレールが先輩ドライバーたちに行っていることだと語る。

    「あるときにはミハエルはセナとさえ戦えるくらいだった。セナはドイツでのテストでミハエルにヒットした。セナは自分はワールドチュアンピオンであり、ミハエルはもっとリスペクトしなければならないと彼に話した。だが、ミハエルは気にしなかった」とフラビオ・ブリアトーレは語る。

    「彼は自分自身を尊重したいと思っていたし、それが理由でとてもアグレッシブな走りをしていた。それがワールドチャンピオンになる唯一の方法だ」

    「まさにそれは今のフェルスタッペンとルクレールがハミルトンやベッテルのような確率されたドライバーに示していることだ」

  • F1:アイルトン・セナが1993年のドニントンを走ったタイヤがブレスレットに

    F1:アイルトン・セナが1993年のドニントンを走ったタイヤがブレスレットに

    アイルトン・セナが、1993年にドニントンで開催されたF1ヨーロッパGPで象徴的なパフォーマンスを披露した際に履いていたタイヤで作られた特別なブレスレットが161個限定で発売された。

    1993年のF1ヨーロッパGPで、アイルトン・セナは大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち、2位のデイモン・ヒルに80秒差をつけて勝利。

    3位でフィニッシュしたアラン・プロストさえ周回遅れにしたその走りは“Lap of Gods”と称されアイルトン・セナ史上最高のドライブとの呼び声が高い。

    モナコのモングリップ社は、グッドイヤー製のレーシングタイヤにセナのロゴを刻んだ18カラットのゴールドトリムを装着したブレスレッドをモナコ自動車クラブで161個限定で発売した。161はアイルトン・セナがグランプリでスタートを切った数となる。

    アイルトンの甥であるブルーノ・セナは「MONGRIP Legend Senna Limited Editionで僕を驚かせたのは、F1でセナがこれまでに使用した最も象徴的なタイヤの1つを調達できたことだ」と述べた。

    「1993年のドニントンパークグランプリは、間違いなくアイルトンによる最も壮観なパフォーマンスの1つだ」

    「伯父を思い出させるものはたくさんあるけど、モダンでエレガントな方法で名誉を与えるこのブレスレットほど特別なものはあない」

    MONGRIP Legend Senna Limited Editionは、4400ユーロ(約52万円)で発売された。