カテゴリー: アイルトン・セナ

  • F1:アイルトン・セナの悲劇的な死から27年

    F1:アイルトン・セナの悲劇的な死から27年

    アイルトン・セナが、この世を去ってから、5月1日で27年の月日が流れたことになる。

    1994年5月1日の午後2時17分、アイルトン・セナは、イモラ・サーキットの悪名高いタンブレロでウィリアムズのコントロールを失い、140mphでコンクリートの壁に激突。マシンの右フロントサスペンションが彼のヘルメットを貫通。即死だった。

    現在、F1グリッドに並んでいるドライバーのなかで、アイルトン・セナが生きていた時代に生を受けたドライバーは8人しかいない。

    昨年、イモラ・サーキットのレースが復活した際に1994年シーズンにウィリアムズでアイルトン・セナのチームメイトだったデイモン・ヒルが語ったコメントを紹介する。

    「ニキ・ラウダの言葉は的を射ていた。神は10年間F1を手にした後、旅立っていった」とデイモン・ヒルは語った。

    「我々は長い間ショックなイベントがなかったので、1つの週末に二重の打撃を受けたことは我々全員にショックを与えた」

    「その週末がどのように展開したかを考えるたびに、本当に信じられない気分になる。すべてが制御不能に見えた。正直に恐ろしく、神経にとって本当の試練であり、何が正気で何がそうでないかについての哲学だった」

    ちょうど37分前にアイルトン・セナを死に至らしめたのと同じマシンを走らせていたデイモン・ヒルの正気は限界に追いやられた。

    「アイルトンがウオールに激突したことは知っていてが、彼の状態の程度はわからなかった」とミハエル・シューマッハが優勝したレースで6位で終えたデイモン・ヒルは語った。

    「リスタート前に(ウィリアムズの広報担当)アン・ブラッドショーが私のところにやって来て、それがアイルトンであり、良くないものであることをほのめかした。しかし、私はそれが重大な怪我であることを意味すると解釈した。その時、彼が死んでいるとは知らなかった。実際、レースが終わるまで競争している誰も彼が死んでいることを知らなかった」

    「リスタートしたとき、我々の上に黒い雲が雲が垂れ込めているのを感じたが、何も心配することはないと感じていた。事故の原因がわからないのに私のマシンを走らせるのは大きなリスクだと考える人もいたし、その意見にはある程度の重みがあったかもしれないが、私はレースに反対はしなかった。私はチームを信頼していた。気に入らなければ、やめることもできた」

    「今日の価値観と態度では、彼らが『OK、今週末は荷物をまとめて家に帰るのに十分だ』と言っても誰もが理解するだろう。しかし、1970年代から1994年の数年後まではドライバーがコース脇で命を落としてもレースを続けなければならなかった」

    「人々は今、そのような経験を経験したくはない。彼らはアクシデントが好きだし、スリルが好きだが、人々が怪我をするのを見たくない。新型コロナウイルスを見てほしい。我々はそれで死ぬ人ができるだけ少なくなるように努めている。死者数を大目に見ることはできない。責任ある態度とは見なされていないからね」

  • ホンダF1、1991年のアイルトン・セナ選手以来のイモラでの勝利

    ホンダF1、1991年のアイルトン・セナ選手以来のイモラでの勝利

    ホンダF1にとって、2021年のF1世界選手権 第2戦 F1エミリア・ロマーニャGPでレッドブル・ホンダF1のマックス・フェルスタッペンが挙げた今季初勝利は、ホンダとして79勝目、そして、イモラ・サーキットでは1991年のアイルトン・セナ選手以来の勝利となった。

    2021年限りでF1から撤退するホンダF1は、今シーズンに向けて“新骨格”と称する完全に新しいF1エンジンを開発。王者メルセデスを倒してタイトルを獲得するためには、シーズン序盤から勝利を重ねて独走を許さないことが絶対条件となっている。

    波乱の多い展開の中となったF1エミリア・ロマーニャGPでは、レッドブル・レーシング・ホンダのマックス・フェルスタッペンが盤石のドライビングで第2戦目で待望の今季初勝利を挙げた。

    「今日の表彰台でレッドブル・レーシング・ホンダという名前を聞いたときには、グッとくるものがありました」
    ホンダF1のマネージングディレクターを務める山本雅史は「今シーズンは序盤戦が非常に大事だと思って臨んでいますが、この2戦目でフェルスタッペン選手が初勝利を挙げてくれたことを本当に嬉しく思っています」と語る。

    「今日の表彰台でレッドブル・レーシング・ホンダという名前を聞いたときには、グッとくるものがありました」

    「レース前に突然雨が降るという難しいコンディションの中で、フェルスタッペン選手の雨の中の走らせ方、うまさが光り、本当にいいレースをしてくれました。また、我々のマシンが十分に戦えることがよく分かったレースでもあるので、改めてここからも一戦一戦大事に戦わなくてはいけないと感じています」

    「バーレーンの開幕戦ではハミルトン選手が優勝し、フェルスタッペン選手が2位でしたが、今日はその逆の結果になりました。この先も同じような戦いが続いていくのではないかと思っていますが、今日は改めて王者ハミルトン選手の速さが光ったレースでもあり、この先も楽なレースになるとは全く思っていません」

    「我々にはあと21戦が残されているのみですが、ここからも一戦ずつしっかりと戦いきることが、最終的な結果につながると思っていますので、それを信じて全力でレースに挑んでいきます」

    「ドライバー、チーム、そしてホンダのメンバーそれぞれが着実な仕事をしたことで得られた勝利です」
    ホンダF1のテクニカルディレクターとして現場を統括する田辺豊治は「今日のエミリア・ロマーニャGPでレッドブル・レーシング・ホンダのフェルスタッペン選手が、今シーズン初優勝を果たしました」とコメント。

    「スタート前に降り出した雨の影響により、非常に難しい路面コンディションの中でアクシデントが多発し、赤旗中断などがあるトリッキーなレース展開でしたが、ドライバー、チーム、そしてホンダのメンバーそれぞれが着実な仕事をしたことで得られた勝利です」

    「懸命な開発によって競争力のあるPUを送り込んでくれたHRD-SakuraとHRD-UKのメンバー、そして素晴らしい車体を開発してきたレッドブル・レーシングに感謝の言葉を贈ります」

    「5番手スタートのスクーデリア・アルファタウリ・ホンダのガスリー選手は、序盤のウエットタイヤでの走行で一時は大きくポジションを落としましたが、粘り強い走りで巻き返しを見せ、7位入賞を獲得してくれました。レッドブル・レーシングのペレス選手、スクーデリア・アルファタウリの角田選手も、ともにいい走りを見せていましたが、残念なことに濡れた路面でスピンを喫し、完走を果たしたもののポイント圏外に終わりました」

    「まだ2戦を終えたところですが、いい戦いができていることをうれしく思っています。ここからも長いシーズンが続きますが、一戦一戦を大事に全力で前進を続けていきます」

    今回の勝利で、マックス・フェルスタッペンは、ドライバーズランキングで首位のルイス・ハミルトンに1ポイント差まで差を縮め、コンストラクターズ選手権でもレッドブル・ホンダは、メルセデスとの差を7ポイントと食らいついている。

  • F1特集:アイルトン・セナがマクラーレンと結んだ1戦100万ドルの契約

    F1特集:アイルトン・セナがマクラーレンと結んだ1戦100万ドルの契約

    ルイス・ハミルトンとメルセデスF1の契約は2021年の1年契約という形で解決した。その28年前、同じようなストーリーが展開していた。彼のヒーローであるアイルトン・セナに。

    ルイス・ハミルトンとトト・ヴォルフとの交渉が年を越して延期されたように、アイルトン・セナは、ロン・デニスとのマクラーレンとの新しい契約にサインすることなく1993年を迎えていた。

    1993年にアイルトン・セナが最終的にマクラーレンと合意に至った契約は序盤5戦しかカバーしていなかった。毎週末のアイルトン・セナの出場は、契約条項によってマクラーレンと法務チームと会計士に委ねられた。マクラーレンが支払わなければ、アイルトン・セナは出場を拒んでいただろう。

    「レースは100万ドルだったのを覚えている!」と当時のマクラーレンのオペレーションディレクターを務めたマーティン・ウィットマーシュは回想する。

    「私がマクラーレンにいた24年半の間、我々はF1やその他の事業で毎年利益を上げていました。ただし、1992年から93年にかけて、150万ポンドを失い、アイルトンに100万ドルのレースを支払っていました」

    アイルトン・セナとマクラーレンとの契約成立が遅れたのは、主に1992年9月にモンツァで発表されたホンダのF1撤退の結果だった。セナにとってその年はすでに困難なシーズンだった。最新のホンダのV12エンジンは期待外れで、ナイジェル・マンセル擁するウィリアムズ・ルノーが支配していた。

    当時、マクラーレンの1993年のホンダ後のエンジン計画は流動的であり、アイルトン・セナは妥協したパッケージでシーズンに入ることを警戒していた。

    「ホンダが去るとすぐに、彼は続けたがらなかった」とマーティン・ウィットマーシュは語る。

    「他のドライバーと同じように仕事をしたいと思うものだし、彼は正しかったと思う」

    1つの計画は、マンスール・オジェの助けを借りてリジェを購入し、事実上、フランスチームのカスタマーであるルノーとの契約を資産収奪することだった。それは少なくともウィリアムズを戦うチャンスを提供する計画だった。

    しかし、その計画は失敗し、12月初旬にはマクラーレンがフォードのカスタマーエンジンを搭載することが明らかになった、正式には何も発表されていまなかった。

    商業的には、ホンダがサポートするワークスエンジンからコスワースのカスタマーエンジンへの切り替えは、マクラーレンにとって大きな変化となった。簡単に言えば、アイルトン・セナに支払うだけの資金を失った。

    アデレードの最終戦の後、アイルトン・セナは家族との伝統的なオフシーズンの休憩のためにブラジルに姿を消した。

    そして、クリスマスの数日前には、仲間のエマーソン・フィッティパルディに勧められてアイルトン・セナはアリゾナへと飛び、ファイアーバード・レースウェイでペンスキーのインディカーをテストしました。

    アイルトン・セナはインディカーでの走行を楽しみ、ロン・デニスは、1993年のマイケル・アンドレッティのチームメイトとしてセナを起用することを当然のこととは考えられなくなった。

    「次に何をすべきか、自分のキャリアにとって何が最善かを真剣に考えているので、まだどのチームにもコミットしていない」とアイルトン・セナはテスト後に語った。

    「それには1993年に運転せず、インディカーについて考えることも含まれる。今から家に帰って静かに考え、近い将来にどのような可能性があるかを見極めていく」

    「将来、運転することに関して、誰からもコミットメントがないことを明確にしなければならない」

    アイルトン・セナは休憩を続け、彼の将来について適切に考えるためにブラジルに戻った。1993年の計画に加えて、彼は長期的な計画と、1994年にウィリアムズに移籍する方法にも焦点を当てていた。

    ロン・デニスとの関係は、成功の歴史を共有しているにもかかわらず、緊張していた。

    アイルトン・セナのマネージャーを務めたジュリアン・ヤコビは「どちらも非常にインテリジェントでした」と語る。

    「彼らはどちらも達成したいことについてかなり冷酷だった。時折衝突した。しかし、基本的に、彼らは成功のためにお互いに依存していた」

    「そして、それは非常に良いパートナーシップだった彼らは実際に非常にうまくやっていた。彼らは自分の意見を主張していた。しかし、彼らは、離れるよりも一緒にいる方が良いことを知っていた」

    一方、ロン・デニスは、チームロータスで2年以上のシーズンで感銘を受けたミカ・ハッキネンと契約することで、マクラーレンの選択肢を広げ続けた。

    ミカ・ハッキネンの立場は少しぼんやりしていた。アイルトン・セナとの契約がまとまらなければ、レースシートに足を踏み入れることはできたが、最終的に元F1ワールドチャンピオンが戻ってくるリスクがあったため、テストドライバーとして1年を費やした。

    ロン・デニスは、F1チームがいつか3台目のマシンを走らせることを許可されるかもしれないこと、そして、何らかの方法で彼がレースに参加することを提案することによってミカ・ハッキネンの希望を維持した。

    しかし、マクラーレンのボスが本当にやりたかったのはアイルトン・セナとの状況を整理することであり、最終的に両当事者はメインスポンサーのマールボロのスイスの拠点で会った。

    「マクラーレンにはフォードのカスタマーエンジンしかなかったので、アイルトンは93年について少し心配していた」とジュリアン・ヤコビは回想する。

    「最初の会議は、1月下旬か2月上旬にローザンヌのフィリップモリスのオフィスで行われた」

    「私は定期便でロンドンからジュネーブに飛んだ、アイルトンはプライベートジェットで飛んだ、彼はブラジルから来たと思う。フィリップモリスは空港で我々を迎えるために車に送った。そして、我々は彼らの事務所に行った」

    アイストン・セナとジュリアン・ヤコビは、ブラジル人の将来について話し合う会議に正式に参加した。その場には、ロン・デニス、そしてマールボロのトップマーケティングマンであるジョン・ホーガンとグラハム・ボーグルも出席した。

    アイストン・セナは自分の市場価値について明確な考えを持っていた。彼の元チームメイトであるゲルハルト・ベルガーがフェラーリと非常に有利な契約を結んだことを知っていたので、妥協する気はなかった。

    「93年のアイルトンの雇用がまだ合意されていない状況だった」とジュリアン・ヤコビは語った。

    「ロンはカスタマーのエンジンにお金を払わなければならなかった。そして、彼は500万ドルしか利用できなかったので、過去に支払っていた金額をアイルトンに支払うことができないと言った」

    「それで、アイルトンは『それは大丈夫だ。僕は最初の5つのレースを走る。それだけだ』と言った。そして、それがレースごとの100万ドルが起こった方法だ。彼は『レースごとに100万ドル欲しい』とは言わなかった。『最初の5つのレースだけを走る』とだけ言った」

    「部屋にはある種の沈黙があった。そしてジョン・ホーガンは笑い始め、彼は私を見た。グラハム・ボーグルは笑わなかった、彼は彼らの中で最も真面目な男だった! ロンは沈黙していた」

    「アイルトンは『まあ、後でもっとお金があるとわかったら、大丈夫、最初の5レースの後に追加のレースについて話し合うつもりだ』と言った。それが起こったことだ。最初の契約は5レース、そして1レース100万ドルで署名された」

    「しかし、契約には条項を設けた。アイルトンは『でも、各レース前の水曜日までに銀行口座にお金が入金されない限り、僕は行かない…』と語った」

    おそらくアイストン・セナが驚いたことに、新しいフォードを搭載したMP4 / 8は、南アフリカでのテストとオープニングレースでかなり競争力があった。しかし、ライバルであるアラン・プロストのウィリアムズによって影は薄くなった。

    その後、悪天候と彼自身の小さな魔法に助けられて、アイルトン・セナはインテルラゴスでのホームレースとドニントンでのヨーロッパGPで優勝した。ルーキーのチームメイトであるマイケル・アンドレッティが苦戦している中、マクラーレンがセナの才能をすべて必要としていることは明らかだった。

    第4戦のサンマリノGPの前に、アイルトン・セナは契約上の切り札をプレイした。セナがマクラーレンに彼の価値を思い出させる機会が生まれた。

    「最初の問題はイモラだった」とジュリアン・ヤコビは語った。

    「私はいつもファックスか電話でお金が到着したことを確認しなければならなかった。とにかく、お金は水曜日に到着していなかった。そして、アイルトンはサンパウロにいた」

    「それで、彼は『オーケー、大丈夫、今週末はレースをするつもりはない』と言った。お金が届かなかったので、彼が行かないことをチームに伝えなければならなかった。チームは送金したと言っていた。当時、銀行はそれほど効率的ではなかった」

    「とにかく、驚いたことに、お金は水曜日ではなく木曜日の朝に入った。それで私はサンパウロのアイルトンの事務所に電話したが、彼らは彼を見つけることができなかった。彼はどこかに女の子と一緒に出かけていた。彼はアパートにも事務所にもいなかったし、彼らは彼を見つけることができなかった」

    「そして、彼らは木曜日のランチタイムに彼を見つけた。それで彼は飛行機に飛び乗った。マクラーレンは彼を迎えに行くためにジョー・ラミレスをローマに送ったが、彼は間違った空港に行ってしまった」

    「アイルトンは金曜日の朝遅くにコースに到着し、最初のプラクティスの途中でマシンに乗り込み、事故に遭った。最初のプラクティスはめちゃくちゃだった…」

    アイルトン・セナは、序盤戦で2勝を挙げたが、マクラーレンがフォードの序列でワークスのベネトンに次ぐ2番目のフィドルを演じたことに不満を抱いていた。

    彼の公の不満はPRの煙幕のようなものとしても機能し、「彼は現れるかどうか」が話題となった。

    最終的に、ロン・デニスは、16戦のシーズンの残りの期間、最初の5戦の契約と同じ基準でアイルトン・セナに支払うことを約束した。

    「それが1レース100万ドルと1600万ドルだった理由だ」とジュリアン・ヤコビは語った。

    「これは1つの契約だったが、水曜日までに支払いが行われなかった場合はいつでもキャンセルできた」

    「アイルトンは木曜日に2度目のチャンスを与えることができたが、お金が届かなかった場合は契約をキャンセルするという選択肢があった。それで、契約が終了する可能性があるため、事実上、レースごとの判断だった」

    「ロンは1100万ドルでフックにかかっていたので、2番目の契約は最初の契約よりもはるかに困難だった。彼はお金を持っていなかった」

    「そして、ロンはそれを手に入れるまで署名しなかったので、彼はフィリップモリスから保証または契約を取得しなければならなかった」

    モナコでのシーズン3回目の勝利は、マクラーレンにとってのアイルトン・セナの価値をさらに証明するものだった。6レース後、アラン・プロストとウィリアムズが勢いを増す前に実際にセナは世界選手権をリードしていた。

    その間もアイルトン・セナは彼の原則に固執していた。

    「2回目は7月だった」とジュリアン・ヤコビは語った。

    「それまでに最初の5レースをはるかに超えていたので、契約の2番目の部分だった、それでも同じ条項がだった。お金が届かなかったので、アイルトンは家を出なかった」

    「あれはフランスGPだったと思う。アイルトンはサンパウロからヴァリグ航空でフランクフルトに飛ぶ予定だった。彼の飛行機とパイロットは彼を迎えに行き、マニークールに飛ばそうとしていた」

    「だが、お金が届かなかった。アイルトンは行かないと言った。それは大きな問題だった。私は真夜中にロンドンの弁護士事務所にいて、ロンは電話をした」

    「水曜日までにお金が届かなかったので、アイルトンは行かないと言った。契約を終了するためにあらゆる種類のドラフトを準備し、さまざまなドラブトが配布された」

    「ロンは『だが、私はアイルトンが飛行機に乗っていることを知っているので、いずれにしろそうするつもりはない。彼が飛行機に乗ってサンパウロを発ったと知らされている』と言った」

    「約30分後、電話が鳴った。アイルトンだった。我々は彼の電話をスピーカーに乗せた。ロンはもう一方の電話にいて、アイルトンは『僕はまだブラジルにいる、ロン』と言った。彼は『いいや、違う、飛行機は発った。君はそうすることはできません!』と言った」

    「アイルトンは『僕はリオにいる。空港の警察署長の事務所にいる、そして、あなたがそのお金がそこにあることを確認するまで飛行機には戻らない』と言った」

    「アイルトンはヴァリグ航空のパイロットをリオで降ろした。他のすべての乗客は飛行機に乗っていたが、彼は降りた」

    「ロンは個人的な保証を与えたと思う。それが何であったか正確には思い出せないが、我々はそれを解決した。」

    その後はよりスムーズにシーズンは進んだ。最終的にアイルトン・セナは1994年にアラン・プロストに代わってウィリアムズのF1ドライバーとして確認された。彼は自分自身に最高のマシンを確保したと信じ、マクラーレンとの最後のレースを楽しむことができた。そして、鈴鹿とアデレードで2勝を挙げてシーズンを終えた。

    「93年に彼の宿敵は彼より60馬力多くかった」とマーティン・ウィットマーシュは語る。

    「マシンに乗っていて10,500rpmくらいでレブリミッターに到達しているときに、13,000rpmのルノーを聞ければ、意気消沈するに違いない!」

    「彼は常に限界が何であるかを知っていたと思う」とジュリアン・ヤコビは語る。

    「93年は、エキップメントのせいでチャンピオンシップに勝てなかったものの、運転方法という点で、彼の史上最高のシーズンだったと思う」

    「マクラーレンはまだ非常に優れたチームだったが、エンジンが劣っていた。93年はルノーとウィリアムズほど良くはなかった」

  • ガスリー、アイルトン・セナ財団にイモラで着用したヘルメットを寄付

    ガスリー、アイルトン・セナ財団にイモラで着用したヘルメットを寄付

    アルファタウリ・ホンダF1のピエール・ガスリーは、昨年のF1エミリア・ロマーニャGPで着用したスペシャルヘルメットをアイルトン・セナ財団に寄付した。

    2020年にF1がイモラに戻ってきたレースで、ピエール・ガスリーは、セナ家の正式な許可を受け、アイルトン・セナの象徴的なカラーリングとデザインを取り入れたトリビュートデザインのスペシャルヘルメットを着用した。

    「当然ながら、アイルトンのためにこのスペシャルヘルメットを作った。子供の頃からずっとセナの大ファンだったからね」と当時ピエール・ガスリーは語っている。

    「彼は僕のアイドルの一人だった。そして、僕にとってここでそれをすることは重要だった」

    アイルトン・セナが、イモラで開催された1994年のF1サンマリノGPで命を落としている。彼のウィリアムズはタンブレロでコースオフし、外側のバリアにクラッシュした。

    2006年以降、イモラをF1カレンダーから外れていたが、新型コロナウイルスのパンデミックに対応してF1が変更を余儀なくされたことで、2020年の急遽グランプリスケジュールに戻った。

    ピエール・ガスリーは、予選で4番グリッドを獲得したが、残念ながら、決勝ではわずか8周でラジエーターの問題によってリタイアを余儀なくされた。

    「リタイアは決していいことではない」とピエール・ガスリーは語った。

    「でも、それがここイモラでの僕たちのホームレースだと特に難しい。トップ5の結果が出せる可能性があることを分かっていたからね」

    ピエール・ガスリーは、その週末に着用した特別なトリビュートヘルメットを、ブラジルの貧しい子供たちのために資金を調達しているアイルトン・セナ財団に贈った。

    ピエール・ガスリーは、昨年8月にF1スペインGPに出場して家を空けているときにノルマンディの自宅が空き巣の被害に遭い、ヘルメットやその他の記念品、貴重品などを失った。

    「本当に価値観がなく、無礼で卑劣な人もいる」とピエール・ガスリーはインスタグラムに投稿し、盗難についての情報提供を呼び掛けている。

    ピエール・ガスリー(アルファタウリ・ホンダ) 2020年 F1エミリア・ロマーニャGP(イモラ) アイルトン・セナ トリビュートヘルメット

  • F1王者ルイス・ハミルトン 「アイルトン・セナもF1で孤独だった」

    F1王者ルイス・ハミルトン 「アイルトン・セナもF1で孤独だった」

    F1王者ルイス・ハミルトンは、自身のF1での経験を子供時代のヒーローであるF1レジェンドのアイルトン・セナと重ね合わせる。

    現在、2021年の契約について激しい憶測の対象となっている7回のF1ワールドチャンピオンのルイス・ハミルトンは、アイルトン・セナもF1キャリアのなかで際立って孤高を守っていたと Sportweek に語った。

    「彼はいつも彼に対して友好的であるとは限らないシステムの中で孤独だった」とルイス・ハミルトンは語った。

    「それは僕が自分のキャリアでも経験していることだ」

    ルイス・ハミルトンは、その経験のひとつが人種差別についてだったと語る。

    「アメリカでのブラック・ライヴズ・マターの抗議は、僕が若い頃に経験した人種差別を思い出させた」とルイス・ハミルトンは語った。

    2020年のそのムーブメントのなかで、ルイス・ハミルトンは昨シーズンのF1で公式手順の一部となったレース前にひざまずく儀式を開始し、メルセデスはF1マシンをブラックに塗ることで反応した。

    「それらのことに集中することで、僕はよりパワーを得ることができた。トラックでレースをしているときに、さらに後押しになった」とルイス・ハミルトンは語った。

    「もはや勝つことだけではなく、それはより大きな目標になった」

  • F1エミリア・ロマーニャGP:トロフィーはセナの事故現場にダイアモンド

    F1エミリア・ロマーニャGP:トロフィーはセナの事故現場にダイアモンド

    F1エミリア・ロマーニャGPで表彰台を獲得したドライバーと優勝したコンストラクターに授与されるトロフィーは、アイルトン・セナの命を奪った事故現場にダイアモンドが埋め込まれた。

    今年、F1は第13戦として1994年のサンマリノGPで3回のワールドチャンピオンであるアイルトン・セナが命を落としたイモラ・サーキットに戻ってきた。

    F1エミリア・ロマーニャGPのトロフィーは、1994年のグランプリし週末にアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーが亡くなった後、大幅に改訂されたイモラ・サーキットのレイアウトがモデルとなっている。

    アイルトン・セナが210kph以上でクラッシュした左コーナーのタンブレロは、彼の死後、シケインへと変更された。トロフィーにはアイルトン・セナの事故現場に0.14カラットのダイヤモンドが埋め込まれ、台座には「DedicateadAyrton」というメッセージが刻まれる。

    ピエール・ガスリーやセルジオ・ペレスなどのドライバーは、金曜日のトラックウォークの再にアイルトン・セナがクラッシュしたタンブレロの記念碑を訪れている。今週末、ガスリーはアイルトン・セナを追悼するヘルメットを着用している。

    アイルトン・セナが亡くなったときに9歳だったルイス・ハミルトンは、彼の子供時代の英雄の事故現場を通過することは彼の早すぎる死の「厳しい思い出」であると語った。

    F1の最も偉大なドライバーの一人と広く見なされているアイルトン・セナが亡くなったのは34歳だった。彼は当時ウィリアムズに所属し、レースをリードしていた。

    F1エミリア・ロマーニャGPでは、ルイス・ハミルトン(メルセデス)が優勝、2位にバルテリ・ボッタス(メルセデス)、3位にダニエル・リカルド(ルノー)が続き、このトロフィーを受け取った。

    F1エミリア・ロマーニャGP トロフィーF1エミリア・ロマーニャGP トロフィー 台座

  • ピエール・ガスリー、自己ベストタイの4番手「アイルトン・セナに捧げる」

    ピエール・ガスリー、自己ベストタイの4番手「アイルトン・セナに捧げる」

    アルファタウリ・ホンダF1のピエール・ガスリーは、2020年のF1世界選手権 第13戦 F1エミリア・ロマーニャGPで4番手タイムを記録。今週末、アイルトン・セナにインスパイアされたヘルメットでレースをするガスリーは、予選パフォマンスをF1のレジェンドに捧げた。

    アイルトン・セナは、F1キャリアのなかでイモラ・サーキットで記録的な8回のポールポジションを獲得。この場所は勝利と悲劇の両方の理由でセナと永遠に結びつく場所とも言える。

    F1が2006年以来14年ぶりにイモラ・サーキットに戻ったことで、アイルトン・セナの伝説が再びクローズアップされており、ピエール・ガスリーも彼のヒーローに敬意を表してイエローとグリーンのヘルメットを着用している。これまでもセナにインスパイアされたヘルメットを着用したドライバーはいたが、バイザーに『HONDA』のステッカーが貼られたのはガスリーだけだ。

    2デー開催という難しい一日となった土曜日だが、ピエール・ガスリーはアルファタウリ・ホンダで自己ベストタイとなる4番グリッドを獲得。ホンダF1が2018年にトロロッソとのパートナーシップ締結以降での予選最高位となる。

    「僕にとって素晴らしい一日だ」とピエール・ガスリーは予選後に記者団に語った。

    「チームにとってベストの予選だ。4番手はレッドブルでの僕のベストだったと思うし、F1でのこれまででベストでもある。イモラでそれを達成できたことも非常に特別だ」

    「もちろん、僕にとって、子供の頃からずっとセナの大ファンだったので、アイルトンのためにこのスペシャルヘルメットを作った。彼は僕のアイドルだった。ここでそれを行うことは僕にとって重要だったけど、チームにとっても重要だった。彼らはこのトラックからわずか15 kmの距離にいるからね。週末の素晴らしいスタートが切れた」

    レースに向けて、ピエール・ガスリーは4番グリッドを堅実なレース結果に変えるために挑戦できると確信してる。

    シャルル・ルクレール(フェラーリ/5番手)、ダニエル・リカルド(ルノー/7番手)といったメインのライバルたちを上回ったピエール・ガスリーだが、興味深いことにアレクサンダー・アルボン(レッドブル/6番手)を倒したことには直接言及しなかった。

    「ダニエルとシャルル、他の全員との厳しい戦いになると予想している」とピエール・ガスリーは説明した。

    「でも、僕たち良いポジションにいると思う。4番手はおそらく僕たちがスタートすることができるベストなポジションなので、それを維持し、できるだけ多くのポイントを獲得するように頑張る必要がある」

  • デイモン・ヒル 「アイルトン・セナの死はF1にとって決定的な瞬間だった」

    デイモン・ヒル 「アイルトン・セナの死はF1にとって決定的な瞬間だった」

    デイモン・ヒルは、当時チームメイトだったアイルトン・セナの死が世界を揺るがした26年と6か月後にF1がイモラ・サーキットに戻ることをロンドンから見守る。

    1994年5月1日の午後2時17分、アイルトン・セナは、悪名高いタンブレロでウィリアムズのコントロールを失い、140mphでコンクリートの壁に激突。マシンの右フロントサスペンションが彼のヘルメットを貫通。即死だった。

    新型コロナウイルスのパンデミックによって大きく改訂された2020年のF1世界選手権は、今週末に1回限りのレースとしてイモラ・サーキットに戻る。ルイス・ハミルトンはF1キャリアで初めて子供時代のアイドルの命を奪ったサーキットに足を踏み入れる。アイルトン・セナが亡くなったときに9歳だったルイス・ハミルトンは、父親のアンソニーから悲劇的なニュースを聞かされて涙を流した。

    イモラ・サーキットで最後にグランプリが開催されたのは2006年だが、12年前の悪夢のような一連の事故はその後のレースに陰を落とした。7周目のアイルトン・セナの死は、ローランド・ラッツェンバーガーが予選で命を落としてからわずか24時間後に起こった。

    「それは現代のF1における決定的な瞬間であり、誰も決して忘れることのない瞬間だった」と1994年シーズンにウィリアムズでアイルトン・セナのチームメイトだったデイモン・ヒルはF1エミリア・ロマーニャGPに先立って PA通信 に語った。

    「ニキ・ラウダの言葉は的を射ていた。神は10年間F1を手にした後、旅立っていった」

    「我々は長い間ショックなイベントがなかったので、1つの週末に二重の打撃を受けたことは我々全員にショックを与えた」

    「その週末がどのように展開したかを考えるたびに、本当に信じられない気分になる。すべてが制御不能に見えた。正直に恐ろしく、神経にとって本当の試練であり、何が正気で何がそうでないかについての哲学だった」

    ちょうど37分前にアイルトン・セナを死に至らしめたのと同じマシンを走らせていたデイモン・ヒルの正気は限界に追いやられた。

    「アイルトンがウオールに激突したことは知っていてが、彼の状態の程度はわからなかった」とミハエル・シューマッハが優勝したレースで6位で終えたデイモン・ヒルは語った。

    「リスタート前に(ウィリアムズの広報担当)アン・ブラッドショーが私のところにやって来て、それがアイルトンであり、良くないものであることをほのめかした。しかし、私はそれが重大な怪我であることを意味すると解釈した。その時、彼が死んでいるとは知らなかった。実際、レースが終わるまで競争している誰も彼が死んでいることを知らなかった」

    「リスタートしたとき、我々の上に黒い雲が雲が垂れ込めているのを感じたが、何も心配することはないと感じていた。事故の原因がわからないのに私のマシンを走らせるのは大きなリスクだと考える人もいたし、その意見にはある程度の重みがあったかもしれないが、私はレースに反対はしなかった」

    「私はチームを信頼していた。気に入らなければ、やめることもできた」

    「今日の価値観と態度では、彼らが『OK、今週末は荷物をまとめて家に帰るのに十分だ』と言っても誰もが理解するだろう。しかし、1970年代から1994年の数年後まではドライバーがコース脇で命を落としてもレースを続けなければならなかった」

    「人々は今、そのような経験を経験したくはない。彼らはアクシデントが好きだし、スリルが好きだが、人々が怪我をするのを見たくない。新型コロナウイルスを見てほしい。我々はそれで死ぬ人ができるだけ少なくなるように努めている。死者数を大目に見ることはできない。責任ある態度とは見なされていないからね」

    アイルトン・セナの事故はF1の顔を永遠に変えた。トラックはより安全になっている。ルイス・ハミルトンの世代が今週末に取り組むサーキットは1994年に見られたものの骨抜きバージョンであり、マシンはほとんど防弾だ。

    F1の最も暗い週末から四半世紀でF1レースでの事故で命を落としたのはジュール・ビアンキ一人だけだ。それは注目に値する記録ではあるが、危険と同義のショーにどのくらい影響を及ぼしたのだろうか。

    「我々は今、崖っぷちに立たされている」と60歳のデイモン・ヒルは締めくくる。

    「危険と、F1をスリリングで危険なものにしていたものはどこにいるのか? どうすればそれを置き換えることができるのか? それが課題だ」

    「我々のスポーツをマン島TTと比較してみてほしい。『誰かがウオールにぶつかるのを見たくないので私は見たくない』と言う人もいるかもしれないが、それらの人たちに畏敬の念を抱かざるを得ない」

    「もう少しスパイスが必要だ。より緊密な競争はより多くのリスクテイクとより良いトラックにも役立つ。我々が注意しなければ、人々は離れていき、我々のスポーツから得ていたスリルを他のものに見つけに行くことになるだろう」

  • ピエール・ガスリー、アイルトン・セナ仕様のヘルメットを着用

    ピエール・ガスリー、アイルトン・セナ仕様のヘルメットを着用

    アルファタウリ・ホンダF1のピエール・ガスリーは、イモラ・サーキットで開催されるF1エミリア・ロマーニャGPにアイルトン・セナをトリビュートした特別なヘルメットを用意した。

    多くのF1ファンにとっては、イモラ・サーキットは1994年のF1サンマリノGPでローランド・ラッツァンバーガーとともに命を落としたアイルトン・セナの記憶を蘇らせる。

    金曜日の朝、イモラ・サーキットでトラックウォークを行ったピエール・ガスリーは、アイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーが命を落とした事故現場であるダンブレロとヴィルヌーブ・コーナーを訪れた。

    その後、ピエール・ガスリーは、ソーシャルメディアアカウントでアイルトン・セナをトリビューとしたヘルメットを公開した。

    「今週末のアイルトンへのオマージュ」とピエール・ガスリーは投稿した。

    「この特別なヘルメットで僕のアイドルの1人を思い出す。伝説は決して忘れられることはない」

    ピエール・ガスリーのトリビュートヘルメットは、アイルトン・セナの特徴的なブラジル国旗“アウリヴェルジ”の配色を特徴としている。バイザーを飾られるホンダのレジェンドは、多くのF1ファンを刺激し、アイルトン・セナは3回のF1ワールドチャンピオンのすべてをホンダのF1エンジンによって獲得した。

    アイストン・セナのトリビュートヘルメットを着用するのはピエール・ガスリーが初めてではない。ルイス・ハミルトンは、2019年のF1ブラジルGPを含めてセナに敬意を表したデザインを披露してきた。ルーベンス・バリチェロも1995年と2011年のF1ブラジルGPでセナのカラーリングとデザインを取り入れたヘルメットを着用している。

    ピエール・ガスリー アイルトン・セナ ヘルメット(2020年 F1エミリア・ロマーニャGP)ピエール・ガスリー アイルトン・セナ ヘルメット(2020年 イモラ・サーキット)ピエール・ガスリー アルファタウリ・ホンダF1(2020年 イモラ・サーキット)

  • ホンダF1 特集:1986年エストリル – セナに完勝したマンセル

    ホンダF1 特集:1986年エストリル – セナに完勝したマンセル

    先週末は、アルガルベ・インターナショナル・サーキットでのF1初開催となったが、ポルトガルでのグランプリ開催には長い歴史がある。

    初めてF1ポルトガルGPが開催されたのは、1958年。同国北部のポルトに設置された市街地コース、ボアビスタ・サーキットだった。翌年は首都リスボンの公道を舞台にしたモンサント・サーキットで行われ、1960年には再びボアビスタでの開催となった。

    それから10年以上を経て、1984年にリスボン郊外の常設サーキットであるエストリルでの開催がスタートする。ここエストリルでは、ホンダF1として過去に2勝を挙げているが、なかでも1986年のレースは、F1の歴史に名を残す2人のレジェンドによる素晴らしい戦いが繰り広げられた。

    1986年は史上稀に見るスリリングなシーズンとなり、アデレードで行われた最終戦で、ウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルがタイヤバーストを喫してタイトル獲得の望みが絶たれるという劇的な幕切れを迎えた。マンセルは、シーズンを通じて素晴らしいパフォーマンスを発揮し、このポルトガルでも印象的なレースを展開した。

    モンツァでのイタリアGPでウイリアムズ・ホンダは、マンセルとネルソン・ピケによって1-2フィニッシュを果たし、マンセルは残り3戦でポイントリーダーとしてポルトガルGPに臨む。この年のタイトル争いは激戦で、マンセルと5ポイント差にピケ、8ポイント差にアラン・プロスト、13ポイント差にアイルトン・セナというランキングになっていた。

    この年のレギュレーションでは、優勝で9ポイント、さらに全16戦の上位11戦のポイントをランキングに反映する有効ポイント制が採用されていた。残り3戦で首位と13ポイント差のアイルトン・セナにとって、逆転の望みはわずかなものと見られていたが、予選で常に上位につけていたこともあり、手強い存在であることに変わりはなかった。

    エストリルでも圧倒的な速さを見せたアイルトン・セナは、予選で2番手のマンセルに約0.8秒差をつけ、シーズン7度目のポールポジションを獲得。3番手のプロストとは1秒以上の差があった。しかし、アイルトン・セナの駆るロータス・ルノーは、予選の速さをレースでも発揮していたわけではなく、レースディスタンスではホンダ V6エンジンにも十分な勝機があった。

    決勝スタート前、ナイジェル・マンセルは狙いを1コーナーに定めていた。ポールポジションのグリッドはイン側に位置しており、スタートでリードを奪うつもりでいた。ウイリアムズ・ホンダのレースペースには自信のあったマンセルだったが、道中でアイルトン・セナをオーバーテイクするのはかなり厳しいと踏んでいた。

    1986年のスタートは、グリッド上のシグナルが赤から青へと切り替わる方式だった。英国の歴史ある雑誌「Motor Sport Magazine」で長年腕を振るうデニス・ジェンキンソン記者は、当時を振り返り、マンセルの狙いをこう書き残している。

    「レース後、彼に話を聞くと、スターティンググリッドでレッドライトのフィラメントを見つめていたと明かしてくれました。彼はグリーンに切り替わる寸前に空白の時間があると考え、レッドライトが薄暗くなった瞬間にスタートを切ったのです」

    「ピットでそれに気付いた人間はわずかで、ジャンプスタートを狙ったのではないかと首をかしげましたが、それを証明するものはありません。ラインのよさもあって、マンセルの判断は完璧と言えました」

    スタートで飛び出したナイジェル・マンセルは、アイルトン・セナをかわして1コーナーへ。2人は後続を引き離し、ベネトンのゲルハルト・ベルガー、ピケ、さらに離れてプロストというオーダーとなり、マンセルの考えていたスタートの重要性を証明する結果となった。アイルトン・セナは、オープニングラップこそマンセルを視界に捉えていたが、次第にマンセルの走りに反応できなくなっていく。

    この展開に、ジェンキンソンはこう記している。

    「マンセルはそれまでも長いレースキャリアがありましたが、さらに学びを深めているように見えて、この年のパフォーマンスは特に記憶に残るものでした。ポルトガルでも、1コーナーでアイルトン・セナの前に出ると、勝負は決したかのように感じられたものです。スタートで飛び出し、下り勾配の高速右コーナーをよどみなく駆け抜けて、首位を確実なものにすると、さらに突き進みます。ホンダエンジンも、そのドライビングに応えてパワーを発揮しました」

    「マンセルはウイリアムズ・ホンダのレースペースはもちろん、燃費マネージメントのシステムにも自信を持っていました。その後も攻め続け、53周目にはラップレコードも記録しています」

    ポイントリーダーの面目躍如といった走りを見せたナイジェル・マンセルだったが、その後方ではアイルトン・セナがピケとプロストを抑えており、やはりスタートで前に出るという作戦は的確だった。その後、最終ラップでセナは燃料切れを起こし、最終的に4位でフィニッシュする。

    実は、この出来事がマンセルの運命に大きく影響する。もしアイルトン・セナがそのまま2位でフィニッシュしていた場合、最終戦後にプロストと同ポイントで並び、シーズン5勝を挙げたマンセルは、4勝のプロストに対して勝利数で上回るため、タイトルを手にしていた。しかし、マンセル本人は当時そんなことを考えてはおらず、レース後にこうコメントしている。

    「シーズン終盤でネルソンとアランというチャンピオン経験者を抑えてランキング首位に立ち、これを終えれば残り2戦というところでしたから、年間で最も重要なレースでした。タイトル争いに踏みとどまるためには絶対に勝たなければならないと思っていました」

    「(次のレースでタイトルが決まることを)願いましょう。ただ、まだそこまで考えていません。とにかく今日はでき得る最高の仕事をして、9ポイントを獲得できました。(ポイント獲得が11戦目となったことで)残念ながら、次のレースからはポイントが伸びない可能性もあるので、まだ分かりません。2レースも残っていますからね・・・」

    このときのナイジェル・マンセルの考えは、図らずも的中してしまった。アイルトン・セナの後退によって4番手から3位に上がったアラン・プロストは獲得ポイントを2つ増やし、残り2戦でポイントを伸ばせなかったマンセルは、その2ポイント差でチャンピオンを逃す結果となった。しかし、エストリルでのマンセルは、完璧なレースを展開して、実力を証明してみせた。その走りが色あせることはない。