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    ジャンカルロ・フィジケラが振り返るF1人生 ミナルディから夢のフェラーリまで

    ジャンカルロ・フィジケラは、14シーズンにわたってF1に参戦し、通算231戦で3勝を挙げた。ミナルディから始まり、ジョーダン、ベネトン、ルノー、フォース・インディア、そして最後には母国イタリアのフェラーリへ。そのキャリアは、決して一直線ではなかったが、多くの記憶に残る瞬間に彩られている。

    現在もフェラーリのファクトリードライバー兼アンバサダーとして活動するフィジケラが、F1公式の「Lights to Flag」で、自身の長いF1人生を振り返った。

    8歳で始まったF1への夢
    フィジケラの父親は熱心なF1ファンで、彼が8歳のとき、故郷ローマ郊外のサーキットへ連れて行った。

    「僕と同じくらいの年齢の子どもたちが走っていて、レースのあとにパドックへ行って、翌日にカートを借りられるよう誰かと話したんだ」

    「それで次の日に行って、燃料がなくなるまでずっと走り続けた。それが夢の始まりだった。8歳のころはF1なんてただの夢だったけど、年を重ねるごとに、プロのレーシングドライバーになってF1へ行くという目的を持って取り組むようになった」

    フィジケラはその後、ジュニアカテゴリーを駆け上がり、F3で勝利とタイトルを獲得。1995年にはDTMに参戦すると同時に、ミナルディのテストドライバーを務めた。

    「テストは数回しかやっていなかった。1995年の終わりにミナルディと再契約して、その時点ではDTMのアルファロメオの公式ドライバーでもあった」

    転機は1996年開幕戦オーストラリアGPのわずか10日から12日前だった。

    「ジャンカルロ・ミナルディから電話がかかってきて、『ジャンカルロ、オーストラリアで走るぞ』と言われた」

    「別のドライバーから資金が入らなかったんだ。たしか井上隆智穂だったと思う。でも、とにかく信じられなかった。メルボルンの開幕戦からいきなりF1で走るなんて想像していなかったからね」

    23歳だったフィジケラはミナルディM195Bで予選16番手を獲得。決勝ではクラッチトラブルによってリタイアしたが、ついにF1ドライバーになった。

    「少し大変だったけど、本当に素晴らしかった」

    「特に金曜日、フリー走行が終わってドライバーズブリーフィングに行ったら、隣にはミハエル・シューマッハ、ミカ・ハッキネン、ゲルハルト・ベルガー、ジャン・アレジがいた。ずっと彼らのような存在になることを夢見ていたんだ」

    「そこで初めて、自分もそのひとりになったんだと気づいた。夢を実現したんだ」

    ジャンカルロ・フィジケラ F1 ジョーダン

    ジョーダンで初表彰台
    1996年はDTMとの兼任もあり、ミナルディから8戦に出場。しかし、資金難に苦しむチームはシーズン後半にペイドライバーのジョバンニ・ラバッジを起用し、フィジケラは新たな所属先を探すことになった。

    「1996年末にエストリルでベネトンのテストをしたんだけど、すごくうまくいった。そのままエンストンへ行ってベネトンとの契約にサインした」

    ただし、当時のベネトンにはアレジとベルガーが在籍しており、レギュラーシートに空きはなかった。

    「フラビオ・ブリアトーレと一緒に、1997年はジョーダンで走ることに決めた」

    ジョーダン197は速さを備えたマシンで、フィジケラはイモラで初ポイントを獲得。カナダGPで初表彰台となる3位、ベルギーGPでは2位に入り、ドライバーズランキング8位でシーズンを終えた。

    「サーキットによってはいいクルマだったし、そうでないところもあった。でも何度か表彰台に上がることができた」

    「最初がカナダで、そのあとベルギーで2位。ドイツではフロントローからスタートして、パンクするまでトップを走っていた。実質的に初めてフル参戦したシーズンとしては、とてもよかったと思う」

    当時のチーム代表エディ・ジョーダンとの関係も良好だった。

    「彼は面白くて、すごくいい人だった。一緒に夕食を食べるのも楽しかった」

    「1997年は僕もオックスフォードに住んでいて、彼の家の近くだったから、よく家に夕食へ行った。そうすると彼はスプーンを使って音楽を演奏するんだ。楽しい時間だったよ」

    ベネトンで続いた停滞
    1998年、フィジケラはついにベネトンのレギュラーシートを獲得した。しかし、わずか3年前までコンストラクターズチャンピオンだったチームは下降局面に入っていた。

    「チームは下り坂だった。1994年や1995年にミハエルが乗っていたころのような最高のクルマではなかった。いいときもあれば悪いときもあった」

    フィジケラは1998年から2001年までの4年間で6回の表彰台を獲得し、1998年オーストリアGPでは自身初のポールポジションも記録した。

    しかし、ベネトンは中団に沈み、タイトル争いに加わることはできなかった。

    「1998年から2001年まで毎年いくつか表彰台には上がった。でも僕の夢はもっと上に行くこと、チャンピオンシップを争うことだった」

    「残念ながらすべてのサーキットでクルマがよかったわけではなく、苦戦していた」

    ベネトンはその後ルノーへと移行したが、フィジケラとは条件面で合意できず、2002年にジョーダンへ復帰することになった。

    「エディはまた一緒に仕事をすることを喜んでくれて、2002年と2003年の2年契約を結んだ」

    「ただ、残念ながらこの時期のジョーダンはあまりよくなかった。クルマにはスポンサーもほとんどなくて、予算がものすごく少なかった。だから開発も本当に難しかった」

    大混乱のブラジルGPでF1初勝利
    ジョーダンでの2年間、フィジケラがポイントを獲得したのはわずか6回だった。

    しかし、そのひとつが彼のF1キャリアを象徴するレースとなった。雨に翻弄された2003年ブラジルGPだ。

    「レースでは本当に競争力があった。難しいコンディションのなかでもかなり速かった」

    予選8番手からスタートしたフィジケラは、混乱を避けながら順位を上げていった。特にターン3ではコースを横切るように大量の水が流れ、多くのドライバーがコースアウトした。

    「他のドライバーたちがスピンしていった。特にターン3はものすごく難しかった。コースを川のように水が流れていたからね」

    「とにかくクルマをコース上に残しておくことが重要だった」

    ルーベンス・バリチェロが燃料系トラブルでリタイアし、首位のデビッド・クルサードがピットイン。2番手へ浮上したフィジケラは、キミ・ライコネンの小さなミスを逃さずトップに立った。

    その直後、マーク・ウェバーが大クラッシュを喫し、さらに散乱したデブリへフェルナンド・アロンソが高速で衝突。レースは赤旗終了となった。

    ところが、周回数をめぐる計時上の混乱によって、暫定優勝者はライコネンとされた。

    「僕はキミを抜いてトップに立っていた。でもミスによって勝利はキミに与えられた」

    「僕たちは自分たちが勝者だと確信していた。だから異議を申し立てて、1週間後に問題が理解された」

    その後、正式な周回順位が訂正され、フィジケラの優勝が確定した。

    「勝利を返してもらった。でも僕は優勝者なのに、初勝利を表彰台の一番高いところで祝えなかった」

    「少し悔しかったけど、もう終わったことだし、いずれにしても僕があのレースの勝者だからね」

    ジャンカルロ・フィジケラ F1 ルノー

    ルノーで手にしたタイトル争いのマシン
    2003年限りでジョーダンを離れたフィジケラは、2004年にザウバーへ移籍した。

    「C23はほとんど2003年のフェラーリのコピーだった。だから、いい結果を出せる自信があった」

    実際に安定したシーズンを送り、チームメイトのフェリペ・マッサを上回るパフォーマンスを披露した。

    「いい選択だった。いいシーズンを送って、たくさんポイントを獲得したし、フェリペ・マッサより速かった。それがシーズン途中でフラビオとルノーとの契約を結べた理由だったと思う」

    2005年、フィジケラは上昇気流に乗っていたルノーへ加入した。

    新車R25を初めて走らせた段階から、その速さは明らかだったという。

    「1月にシェイクダウンをしたとき、素晴らしいクルマだと感じた」

    「バルセロナで最初の合同テストをしたときもすごく速かったし、燃料をたくさん積んだ状態でも最速だった。だからシーズン開幕時点ではかなり自信があった」

    開幕戦オーストラリアGPではポールポジションを獲得し、そのまま優勝。

    「これ以上ないシーズンの始まりだった」

    しかし、その後はマレーシアでのアクシデントを皮切りに、技術的、機械的トラブルが続き、同僚アロンソの勢いにも及ばなかった。

    「十分なポイントを獲得できず、チャンピオンシップを争うことができなかった」

    「シーズン中盤、おそらくそれより前には、フェルナンドを助けて、チームがチャンピオンシップを獲得するためにサポートすることを決めた」

    結果としてアロンソがドライバーズタイトルを獲得し、ルノーもコンストラクターズタイトルを手にした。

    「両方のタイトルを獲得できた。フェルナンドがドライバーズチャンピオンになり、僕たちはコンストラクターズチャンピオンにもなった。それはチームにとって本当に重要だった」

    2006年も似た展開となった。

    第2戦マレーシアGPでフィジケラは優勝を飾った。

    「マレーシアでは勝ったし、本当に楽に走れていて、自信もあった」

    「でもまた問題が起きた。僕自身のミスもあったし、チーム側のミスやクルマのトラブルもあった。2005年と同じようなシーズンだったけど、それでもまた両方のタイトルを獲得した」

    このマレーシアGPが、結果的にフィジケラにとってF1最後の勝利となった。

    フォース・インディアで起こしたスパの奇跡
    フィジケラは2007年もルノーに残留したが、戦闘力を落としたマシンで厳しいシーズンを過ごした。

    2008年にはフォース・インディアへ移籍。かつてのジョーダンを源流とするシルバーストンのチームへ、3度目の加入を果たした。

    「簡単ではなかった。2008年のクルマは十分に速くなくて、12番手や14番手あたりを争っていた。でも2009年になるとクルマはよくなっていった」

    そして2009年ベルギーGPで、その成長が一気に表面化する。

    「開発はうまく進んでいた。スパでは新しい空力パッケージが投入されて、予選前の土曜午前に初めて使ったんだけど、完全に別のクルマになったと感じた」

    「運転していて素晴らしかった。すごく安定していて、ニュートラルなクルマだった」

    フィジケラは予選Q2で総合4番手につけ、Q3進出を果たした。

    「予選ではトップ10に入れるかもしれないと思っていた。Q2で4番手だったからすごくうれしくて、トップ6くらいに入れたらと思っていた」

    ところがQ3で驚異的なラップを刻み、まさかのポールポジションを獲得する。

    「素晴らしいQ3のラップを走ったらポールだった。誰も予想していなかった。特に僕自身もチームもね」

    「本当に素晴らしいラップタイムだったし、素晴らしいポールポジションだった」

    決勝でも首位を守ってスタートしたが、セーフティカー導入後のリスタートでライコネンに抜かれた。

    当時のフェラーリはKERSを搭載していた一方、フォース・インディアにはKERSがなかった。

    「残念ながらキミに抜かれた。彼にはKERSがあったけど、フォース・インディアにはなかった。だから彼は約80馬力多い状態で僕を抜いた」

    「抜き返すことは不可能だった。彼はKERSを使うことができたからね」

    それでもフィジケラは最後までライコネンの背後を走り続け、2位でチェッカーを受けた。

    「レース中ずっと同じ戦略で彼の後ろを走っていたけど、僕のほうが速かった」

    「それでも僕たちにとって2位は優勝と同じだった。夢のようだったし、本当に素晴らしい結果だった」

    これはフォース・インディアにとってF1初表彰台であり、フィジケラにとっては通算19回目、そして最後のF1表彰台となった。

    ジャンカルロ・フィジケラ F1 フェラーリ

    37歳で叶えたフェラーリの夢
    2009年、フェラーリではハンガリーGPで重傷を負ったフェリペ・マッサがシーズン残りを欠場。

    代役としてテストドライバーのルカ・バドエルがバレンシアとスパで出場していたが、結果を残せず、フェラーリはドライバー交代を検討していた。

    そしてスパで表彰台に立ったフィジケラのもとへ電話が入った。

    「ベルギーGPのあと、ステファノ・ドメニカリから電話があった。フェラーリはドライバーを探していた」

    「子どものころから、それは僕の人生の夢だった。37歳で、F1に14シーズン近く参戦していたから、『今しかない』と思った」

    フォース・インディアと契約解除について合意し、フィジケラは母国イタリアGPでフェラーリデビューを果たした。

    「そしてモンツァでフェラーリからデビューした」

    「そこで初めて、イタリア人ドライバーとしてフェラーリを走ることが何を意味するのか理解した。本当にすごかった。素晴らしかったし、たくさんの感情があった」

    一方で、当時のF60は扱いやすいマシンではなかった。

    「唯一の問題は、クルマが十分に速くなかったことだ。それにフォース・インディアとは運転の仕方がまったく違っていて、僕には難しかった」

    「予選でいい位置を獲得するのが難しくて、それが決勝にも影響した。でも、それでもフェラーリを走れたんだ」

    F1を離れても続いたフェラーリとの関係
    2009年最終戦アブダビGPで16位となり、フィジケラのF1キャリアは通算231戦で幕を閉じた。

    「2009年の終わりには2つの選択肢があった」

    「マッサがフェラーリに戻ってくることになっていたから、F1に残ることはできてもトップチームではなかった」

    ザウバーと再契約する可能性もあったという。

    「ザウバーともう一度契約してF1に残るところまでかなり近づいていた。でも、耐久レースという新しい経験をして、フェラーリファミリーに残るという選択肢もあった」

    「14シーズンを戦ったあと、新しい挑戦、新しい道を選ぶことにした。耐久レースへ行くことを決めたんだ」

    その後はル・マン24時間レースでクラス優勝を2度達成し、WECやIMSA、プチ・ル・マンでもクラス優勝を挙げた。

    「正しい選択だったと思う。たくさんのレースを本当に楽しむことができた」

    「今もレースをしているし、フェラーリのファクトリードライバー兼アンバサダーでもある。本当に幸せだよ」

    「過去に戻って変えたいとは思わない」
    フィジケラが最後にF1を戦ってから16年以上が経過した現在も、彼はモータースポーツとの関係を保ち続けている。

    F1のアンバサダーを務める一方、マルコ・チョーチとともにドライバーマネジメント会社を運営。FIA F3やF1 ACADEMYを含む複数カテゴリーで約20人のドライバーを支援している。

    「そのなかの誰かをF1へ連れていきたいと思っている。簡単ではないけどね」

    自身のキャリアについて後悔はないという。

    「僕は幸せだよ。もちろん、夢はF1ワールドチャンピオンになることだった」

    「それは達成できなかった。でも、もう終わったことだ」

    フィジケラは、F1で長く戦えたことそのものが特別だったと振り返る。

    「僕は幸運な人間だと思う。何年もの間、F1を走る20人のドライバーのひとりになることができたからね」

    「たくさんの夢を実現できた。だから、これ以上を求めることはできない」

    そして、自身が歩んできた道についてこう締めくくった。

    「過去に戻って、自分の人生を変えたいとは決して思わない」

  • 元F1ドライバーのジャンカルロ・フィジケラ 鈴鹿1000kmレースに参戦決定

    元F1ドライバーのジャンカルロ・フィジケラ 鈴鹿1000kmレースに参戦決定

    ジャンカルロ・フィジケラが、LM corsaから1000kmレースに出場することが発表された。

    大阪オートメッセの会場で、大阪トヨペットグループとそのレーシング子会社であるLM corsaは、今シーズンに控える「オートバックス SUPER GTシリーズ」と「GTワールドチャレンジ・アジア」の計画を発表した。

    金曜日、大阪国際展示場(インテックス大阪)にて行われたLM corsaのステージイベントで明らかになった最大のニュースは、ジャンカルロ・フィジケラが、2度の鈴鹿1000km総合優勝経験を持つ脇阪寿一と、後日発表されるジェントルマンドライバーとともに、#60フェラーリ296GT3のコックピットをシェアし、第49回鈴鹿1000kmレースに出場することだ。

    F1での14年間のキャリアで知られるジャンカルロ・フィジケラは、その後、フェラーリで耐久スポーツカーレースのセカンドキャリアを成功させた。2012年と2014年のル・マン24時間レースではLMGTE Proクラスで2勝を挙げ、デイトナ24時間レースとセブリング12時間レースでは表彰台に上った。また、ミシュラン・レースウェイ・ロード・アトランタのプチ・ルマンでは2つのクラスで優勝を果たした。 その後、フェラーリのカスタマーチームであるスクーデリア・バルドリーニでドライブし、過去2年間でイタリアGT耐久選手権で2回の優勝を果たしている。

    ジャンカルロ・フィジケラ

    2005年にジャンカルロ・フィジケラは鈴鹿でのF1日本グランプリをリードしたが、最終ラップでキミ・ライコネンに印象的なオーバーテイクをされて2位でフィニッシュした。

    彼の共同ドライバーである脇阪寿一は、2019年よりLM corsaのGTワールドチャレンジ・アジアプログラムに参加し、2022年にシリーズが再開された後も続けた。彼は2001年と2002年に鈴鹿1000kmレースで優勝しており、後者は3度のSUPER GT GT500チャンピオンである兄の脇阪寿一、そしてLM corsaの現SUPER GTチームディレクターである飯田章との共同ドライバーとしてだった。

    脇阪寿一は今シーズンもGTワールドチャレンジ・アジアにフル参戦し、チームメイトのブロンズドライバーと#60フェラーリをシェアする予定である。

    SUPER GTでは、LM corsaは、レギュラードライバーの吉本大樹と河野駿佑に加え、新型の#60 Lexus LC 500 GT300のサードドライバーとして伊藤黎明が発表されたことを明らかにした。
    24歳の伊藤は、全日本F4選手権でデビューして以来、OTGモータースポーツと関わってきたが、2023年にヨギボレーシングの一員としてSUPER GTデビューを果たした。伊藤は、OTGが運営する昭和オートでポルシェ カレラ カップ ジャパンに参戦し、昨年はあと1勝で無敗のシーズン優勝というところまで迫った。また、エンドレススポーツからスーパー耐久にもフル参戦し、富士24時間レースのST-2クラスで優勝を果たした。

    V8エンジン搭載のLC500でSUPER GTの一部スケジュールに参加するほか、伊藤はLMコルサからスーパーフォーミュラ・ライツにもフル参戦する。

  • F1アフリカGP サンジバルが候補地に浮上 ジャンカルロ・フィジケラが関与

    F1アフリカGP サンジバルが候補地に浮上 ジャンカルロ・フィジケラが関与

    F1アフリカGPの不在が指摘されるなか、アフリカ本土の沖合に浮かぶ群島ザンジバルに解決の糸口が見えてきた。

    リバティ・メディアもFIA(国際自動車連盟)も、F1がアフリカでのレースを必要としていることに関しては一致していると考えられている。

    昨年、F1はかつての南アフリカGPをキャラミで復活させるという契約に近づいたが、最終段階で決裂した。

    しかし、FIA会長のモハメド・ビン・スライエムは今月初め、「我々はアフリカで非常に良い関係を築いており、アフリカにもっと注目すべきだ」とmotorsport-magazin.comに語った。

    そして今、イタリアのLa Gazzetta dello Sportは、ザンジバルの新サーキットプロジェクトは 「F1での未来を夢見ている」ものであり、元F1ドライバーのジャンカルロ・フィジケラも関与していると伝えた。

    ジャンカルロ・フィジケラ アフリカグランプリF1アフリカGPのサーキットプロジェクトへの関与が報じられたジャンカルロ・フィジケラ

    「建設に向けた具体的な第一歩が踏み出されたのは2022年9月でアフリカの島の政府機関が承認を与えた」

    そして昨年11月、トラック用地はプロジェクト投資家の手に渡り、彼らはフィジケラを技術コンサルタントとして起用した。

    しかし、マルコ・ブルックナー記者は、サーキットを完成させ、FIAの承認を得ることは「簡単なことではない」と認めている。

    「最初の石の敷設は2025年まで予定されておらず、サーキットの最初の部分がオープンするのは2027年だ」

    「20200年代が終わるまでにこのトラックが必要な認証を取得するとは考えにくい」

  • ジャンカルロ・フィジケラ 「アロンソとは何の問題もなかった」

    ジャンカルロ・フィジケラ 「アロンソとは何の問題もなかった」

    ジャンカルロ・フィジケラは、フェルナンド・アロンソは全てのF1チーム内で問題を引き起こすというのは事実ではないと述べた。

    今シーズン末でF1キャリアにピリオドを打つことを発表しているフェルナド・アロンソは、妥協を許さない姿勢、コメント、戦略によって、所属チーム内で面倒な事態を起こすと非難する者もいる。

    しかし、2005年と2006年にルノーでフェルナンド・アロンソとともにタイトルを獲得したジャンカルロ・フィジケラは「僕たちは一緒に素晴らしい2年間を共有した」と El Mundo Deportivo にコメント。

    「チーム内の雰囲気はこれまで経験したことがないくらい良かった。僕たちは友人だったし、とてもうまくっやっていた」

    「僕たちはいつも一緒に仕事をしていたし、レースの1時間前にカードで遊んでいたときもあった」

    しかし、フェラーリ時代にフェルナンド・アロンソのチームメイトだったフェリペ・マッサは、数日前にアロンソは常にチーム内で問題を引き起こしていたと語っていた。

    「それについては僕には何も言えない」とジャンカルロ・フィジケラはコメント。

    「僕たちは一緒にすべてを勝ち取った。僕たちは本当にいい関係と友情を築いていた。それが僕にとってそのようなことはなかったと言っている理由だ」

    多くの人々と同様に、ジャンカルロ・フィジケラは、フェルナンド・アロンソがインディカーに転向すると予想している。

    「彼には最高の結果を出せることがわかているものを続けて欲しいと伝えたい」とジャンカルロ・フィジケラはコメント。

    「彼は本当に多くのことを達成してきたし、彼の活躍を祈っている」

  • ジャンカルロ・フィジケラ、GTE AmクラスでWECにフル参戦

    ジャンカルロ・フィジケラ、GTE AmクラスでWECにフル参戦

    元F1ドライバーのジャンカルロ・フィジケラが、2018/19シーズンのFIA 世界耐久選手権(WEC)のGTE AmクラスにAFコルセが運営するスピリット・オブ・レースから参戦することが決定した。

    ジャンカルロ・フィジケラ(45歳)は、フェラーリドライバーとしてスピリット・オブ・レースのフェラーリ 488GTEをフランチェスコ・カステラッチ、トーマス・フローとともに走らせれる。

    昨年までジャンカルロ・フィジケラは、IMSAウェザーテック・スポーツカー選手権にリシ・コンペティツィオーネから参戦しており、WEC復帰は4シーズンぶりのフル参戦となる。

    ジャンカルロ・フィジケラは、2012年から2年間AFコルセからGTE Proクラスに参戦。2016年と2017年には同チームからル・マン24時間レースに参戦していた。

    ジャンカルロ・フィジケラは、今年序盤にフェラーリとGTドライバーとして契約がまとまらず、デイトナ24時間にリシ・コンペティツィオーネから参戦することができなかった。

    ジャンカルロ・フィジケラは「トーマス、フランチェスコ、そして、スピリット・オブ・レースのファミリー全体に加わることに本当に興奮している」とコメント。

    「WECは世界で最もスリリングで競争的なシリーズのひとつだ。この強力なチームでシーズンを成功させることを楽しみにしている」

    ジャンカルロ・フィジケラは、1996年から2009年までF1に参戦。231戦に出場し、3勝、19回の表彰台、4度のポールポジションを獲得している。

  • ジャンカルロ・フィジケラ、AFコルセを離れてUSCCにフェラーリで参戦

    ジャンカルロ・フィジケラ、AFコルセを離れてUSCCにフェラーリで参戦

    ジャンカルロ・フィジケラは、2014年にリシ・コンペティツォーネからユナイテッド・スポーツカー・チャンピオンシップ(USCC)に参戦する。

    昨年まではAFコルセのドライバーとしてWEC世界耐久選手権に参戦していたジャンカルロ・フィジケラだが、2014年はリシ・コンペティツォーネと契約してUSCCのGTLMクラスでマッテオ・マルセリとともにフェラーリ458 GTEを走らせる。

    開幕戦のデイトナ24時間には、ジャンマリア・ブルーニとオリビエ・バレッタを加えた4人で参戦する。

    この発表により、ジャンカルロ・フィジケラが、2014年にAFコルセからWECに参戦する可能性はなくなったと考えられる。

    ジャンカルロ・フィジケラのアメリカへの転向は、11月のWEC最終戦バーレーンでのAFコルセのドライバー組み換えに続くもの。

    AFコルセは、ジャンマリア・ブルーニとトニ・バイランダーのタイトル獲得のチャンスを最大化するために、ジャンカルロ・フィジケラを71号車に降格していた。

    今回のジャンカルロ・フィジケラの移籍について、フェラーリおよびAFコルセからのコメントは出ていない。

    AFコルセの2014年のドライバー体制はまだ発表されていないが、ジャンマリア・ブルーニとトニ・バイランダーがフルシーズンを戦うとみられている。

    2台目のドライバーには、フェラーリの非公式なGTドライバーとしてラインナップされているというダビデ・リゴンの名前が挙がっている。

    昨年までAFコルセの71号車を走らせていた小林可夢偉は、F1復帰を目指してケータハムのドライバー候補に挙げられている。

  • 【動画】 ジャンカルロ・フィジケラ、アルファロメオ 4Cでサーキット走行

    【動画】 ジャンカルロ・フィジケラ、アルファロメオ 4Cでサーキット走行

    ジャンカルロ・フィジケラが、アルファロメオ 4Cでサーキット走行をする動画が公開された。

    アルファロメオ 4Cは、排気量1750ccの直列4気筒直噴ターボエンジンをミッドシップに搭載し、最大出力240ps、最大トルク35.7kgmを引き出す。車両重量は895kg。“ローンチ・エディション”の価格は欧州で6万ユーロ(約795万円)で、ポルシェ ケイマンなどがライバルとされるアルファロメオの新型スポーツカーだ。

    現在、フェラーリからWEC世界耐久選手権に参戦するジャンカルロ・フィジケラは、イタリアのバロッコのテストトラックでアルファロメオ 4Cのステアリングを握った。

  • フェルナンド・アロンソ、チャリティサッカーに出場

    フェルナンド・アロンソ、チャリティサッカーに出場

    フェルナンド・アロンソとジャン・カルロ・フィジケラは、「パルティータ・デル・クオーレ(ハートの試合)」と呼ばれる恒例のサッカー・チャリティ・マッチに参加した。

    23年目を迎えた今年で、パルティータ・デル・クオーレはトリノのユヴェントス・スタジアムで開催され、4万1000人が来場。試合は、イタリア人ミュージシャンのチーム「ナツィオナーレ・カンタンティ」とスポーツ選手やテレビタレントから構成される「チーム・カンピオーニ」が対戦し、9-9で引き分けた。

    このスペシャルマッチの入場料や寄付によって集められた150万ユーロは、ガンの治療法を専門に研究するカンディオーロ学会に寄付される。

    試合には、フェラーリを代表して、フェルナンド・アロンソとジャンカルロ・フィジケラが出場。フェリペ・マッサは、F1モナコGPでの事故から回復するため欠席した。

  • ジャンカルロ・フィジケラ、ボロニャモーターショーでF1デモ走行

    ジャンカルロ・フィジケラ、ボロニャモーターショーでF1デモ走行

    ジャンカルロ・フィジケラが、ボローニャモーターショー 2011に参加。フェラーリのF1マシンでデモ走行を行った。

    今年、AFコルセからル・マン・シリーズとインターナショナル・カップに458イタリアで参戦して勝利を収めたジャンカルロ・フィジケラは、2011年のスクーデリア・フェラーリについて「今年のF1は、フェラーリにとって期待された結果ではなかった」とコメント。

    「でも、チームは決して諦めないし、すでに再び勝つために集中している。成功するために必要なものはすべて揃っている」

    2012年、ジャンカルロ・フィジエラは、AFコルサでFIA世界耐久選手権(WEC)に参戦する。

    「GTレースでは、今年、AFコルサでジャンマリア・ブルーニと一緒にLMSでドライバーズタイトルとチームタイトルを獲得し、ILMCではチームタイトルを獲得した。両方のシリーズでフェラーリにコンストラクターズトロフィをもたらせたことは素晴らしい結果だ」

    「来年は3月にセブリングで開幕するFIA世界耐久選手権で新しいチャレンジに挑む」

    「F1でずっと走ったあと、屋根のついたマシンに乗り換えるのは最初はかなり難しかったことは否定できない。でも、レース毎にフェラーリが僕たちに与えてくれたマシンのポテンシャルを最大限に引き出すことができ、それらの重要な勝利に貢献することができた」

    2009年に負傷したフェリペ・マッサの代役としてフェラーリからF1に参戦したジャンカルロ・フィジケラは、その時点までレースをしてきたマシンとの違いに適応するのに苦労したと述べた。

    「自分に何ができるかを示すことはできなかったけど、それでもフェラーリのカラーでいくつかのグランプリに参戦できたことを誇りに思っている。マラネロのスクーデリアは僕だけでなく全てのドライバーの夢だ。イタリア人として、僕のキャリアで最も刺激的な瞬間のひとつだった」

    若いカートドライバーにどのようにしたらF1ドライバーになれるかと質問されたフィジケラは「常に自分を信じることだ。本気で望めば、実現できると思う」とアドバイスした。

  • ジャンカルロ・フィジケラ、イタリアで交通事故

    ジャンカルロ・フィジケラ、イタリアで交通事故

    ジャンカルロ・フィジケラが、イタリアで交通事故を起こした。

    イタリアのメディア報道よると、ジャンカルロ・フィジケラは、ローマ北部のカンパニャーノでフェラーリを運転中に52歳の女性が運転する小型車に追突したという。

    衝突された女性は病院に運ばれたが、まもなく帰宅した。

    報道によると、ジャンカルロ・フィジケラは、道路工事による長い渋滞に差し掛かったが、止まり切れなかったと交通警察に説明したという。

    ジャンカルロ・フィジケラは、2005年にローマで制限時速60kmのところを時速148kmを出して速度違反で捕まっているが、その際は子供が熱を出したため急いでいたと釈明している。