ジャンカルロ・フィジケラが振り返るF1人生 ミナルディから夢のフェラーリまで

ジャンカルロ・フィジケラが振り返るF1人生 ミナルディから夢のフェラーリまで

ジャンカルロ・フィジケラは、14シーズンにわたってF1に参戦し、通算231戦で3勝を挙げた。ミナルディから始まり、ジョーダン、ベネトン、ルノー、フォース・インディア、そして最後には母国イタリアのフェラーリへ。そのキャリアは、決して一直線ではなかったが、多くの記憶に残る瞬間に彩られている。

現在もフェラーリのファクトリードライバー兼アンバサダーとして活動するフィジケラが、F1公式の「Lights to Flag」で、自身の長いF1人生を振り返った。

8歳で始まったF1への夢
フィジケラの父親は熱心なF1ファンで、彼が8歳のとき、故郷ローマ郊外のサーキットへ連れて行った。

「僕と同じくらいの年齢の子どもたちが走っていて、レースのあとにパドックへ行って、翌日にカートを借りられるよう誰かと話したんだ」

「それで次の日に行って、燃料がなくなるまでずっと走り続けた。それが夢の始まりだった。8歳のころはF1なんてただの夢だったけど、年を重ねるごとに、プロのレーシングドライバーになってF1へ行くという目的を持って取り組むようになった」

フィジケラはその後、ジュニアカテゴリーを駆け上がり、F3で勝利とタイトルを獲得。1995年にはDTMに参戦すると同時に、ミナルディのテストドライバーを務めた。

「テストは数回しかやっていなかった。1995年の終わりにミナルディと再契約して、その時点ではDTMのアルファロメオの公式ドライバーでもあった」

転機は1996年開幕戦オーストラリアGPのわずか10日から12日前だった。

「ジャンカルロ・ミナルディから電話がかかってきて、『ジャンカルロ、オーストラリアで走るぞ』と言われた」

「別のドライバーから資金が入らなかったんだ。たしか井上隆智穂だったと思う。でも、とにかく信じられなかった。メルボルンの開幕戦からいきなりF1で走るなんて想像していなかったからね」

23歳だったフィジケラはミナルディM195Bで予選16番手を獲得。決勝ではクラッチトラブルによってリタイアしたが、ついにF1ドライバーになった。

「少し大変だったけど、本当に素晴らしかった」

「特に金曜日、フリー走行が終わってドライバーズブリーフィングに行ったら、隣にはミハエル・シューマッハ、ミカ・ハッキネン、ゲルハルト・ベルガー、ジャン・アレジがいた。ずっと彼らのような存在になることを夢見ていたんだ」

「そこで初めて、自分もそのひとりになったんだと気づいた。夢を実現したんだ」

ジャンカルロ・フィジケラ F1 ジョーダン

ジョーダンで初表彰台
1996年はDTMとの兼任もあり、ミナルディから8戦に出場。しかし、資金難に苦しむチームはシーズン後半にペイドライバーのジョバンニ・ラバッジを起用し、フィジケラは新たな所属先を探すことになった。

「1996年末にエストリルでベネトンのテストをしたんだけど、すごくうまくいった。そのままエンストンへ行ってベネトンとの契約にサインした」

ただし、当時のベネトンにはアレジとベルガーが在籍しており、レギュラーシートに空きはなかった。

「フラビオ・ブリアトーレと一緒に、1997年はジョーダンで走ることに決めた」

ジョーダン197は速さを備えたマシンで、フィジケラはイモラで初ポイントを獲得。カナダGPで初表彰台となる3位、ベルギーGPでは2位に入り、ドライバーズランキング8位でシーズンを終えた。

「サーキットによってはいいクルマだったし、そうでないところもあった。でも何度か表彰台に上がることができた」

「最初がカナダで、そのあとベルギーで2位。ドイツではフロントローからスタートして、パンクするまでトップを走っていた。実質的に初めてフル参戦したシーズンとしては、とてもよかったと思う」

当時のチーム代表エディ・ジョーダンとの関係も良好だった。

「彼は面白くて、すごくいい人だった。一緒に夕食を食べるのも楽しかった」

「1997年は僕もオックスフォードに住んでいて、彼の家の近くだったから、よく家に夕食へ行った。そうすると彼はスプーンを使って音楽を演奏するんだ。楽しい時間だったよ」

ベネトンで続いた停滞
1998年、フィジケラはついにベネトンのレギュラーシートを獲得した。しかし、わずか3年前までコンストラクターズチャンピオンだったチームは下降局面に入っていた。

「チームは下り坂だった。1994年や1995年にミハエルが乗っていたころのような最高のクルマではなかった。いいときもあれば悪いときもあった」

フィジケラは1998年から2001年までの4年間で6回の表彰台を獲得し、1998年オーストリアGPでは自身初のポールポジションも記録した。

しかし、ベネトンは中団に沈み、タイトル争いに加わることはできなかった。

「1998年から2001年まで毎年いくつか表彰台には上がった。でも僕の夢はもっと上に行くこと、チャンピオンシップを争うことだった」

「残念ながらすべてのサーキットでクルマがよかったわけではなく、苦戦していた」

ベネトンはその後ルノーへと移行したが、フィジケラとは条件面で合意できず、2002年にジョーダンへ復帰することになった。

「エディはまた一緒に仕事をすることを喜んでくれて、2002年と2003年の2年契約を結んだ」

「ただ、残念ながらこの時期のジョーダンはあまりよくなかった。クルマにはスポンサーもほとんどなくて、予算がものすごく少なかった。だから開発も本当に難しかった」

大混乱のブラジルGPでF1初勝利
ジョーダンでの2年間、フィジケラがポイントを獲得したのはわずか6回だった。

しかし、そのひとつが彼のF1キャリアを象徴するレースとなった。雨に翻弄された2003年ブラジルGPだ。

「レースでは本当に競争力があった。難しいコンディションのなかでもかなり速かった」

予選8番手からスタートしたフィジケラは、混乱を避けながら順位を上げていった。特にターン3ではコースを横切るように大量の水が流れ、多くのドライバーがコースアウトした。

「他のドライバーたちがスピンしていった。特にターン3はものすごく難しかった。コースを川のように水が流れていたからね」

「とにかくクルマをコース上に残しておくことが重要だった」

ルーベンス・バリチェロが燃料系トラブルでリタイアし、首位のデビッド・クルサードがピットイン。2番手へ浮上したフィジケラは、キミ・ライコネンの小さなミスを逃さずトップに立った。

その直後、マーク・ウェバーが大クラッシュを喫し、さらに散乱したデブリへフェルナンド・アロンソが高速で衝突。レースは赤旗終了となった。

ところが、周回数をめぐる計時上の混乱によって、暫定優勝者はライコネンとされた。

「僕はキミを抜いてトップに立っていた。でもミスによって勝利はキミに与えられた」

「僕たちは自分たちが勝者だと確信していた。だから異議を申し立てて、1週間後に問題が理解された」

その後、正式な周回順位が訂正され、フィジケラの優勝が確定した。

「勝利を返してもらった。でも僕は優勝者なのに、初勝利を表彰台の一番高いところで祝えなかった」

「少し悔しかったけど、もう終わったことだし、いずれにしても僕があのレースの勝者だからね」

ジャンカルロ・フィジケラ F1 ルノー

ルノーで手にしたタイトル争いのマシン
2003年限りでジョーダンを離れたフィジケラは、2004年にザウバーへ移籍した。

「C23はほとんど2003年のフェラーリのコピーだった。だから、いい結果を出せる自信があった」

実際に安定したシーズンを送り、チームメイトのフェリペ・マッサを上回るパフォーマンスを披露した。

「いい選択だった。いいシーズンを送って、たくさんポイントを獲得したし、フェリペ・マッサより速かった。それがシーズン途中でフラビオとルノーとの契約を結べた理由だったと思う」

2005年、フィジケラは上昇気流に乗っていたルノーへ加入した。

新車R25を初めて走らせた段階から、その速さは明らかだったという。

「1月にシェイクダウンをしたとき、素晴らしいクルマだと感じた」

「バルセロナで最初の合同テストをしたときもすごく速かったし、燃料をたくさん積んだ状態でも最速だった。だからシーズン開幕時点ではかなり自信があった」

開幕戦オーストラリアGPではポールポジションを獲得し、そのまま優勝。

「これ以上ないシーズンの始まりだった」

しかし、その後はマレーシアでのアクシデントを皮切りに、技術的、機械的トラブルが続き、同僚アロンソの勢いにも及ばなかった。

「十分なポイントを獲得できず、チャンピオンシップを争うことができなかった」

「シーズン中盤、おそらくそれより前には、フェルナンドを助けて、チームがチャンピオンシップを獲得するためにサポートすることを決めた」

結果としてアロンソがドライバーズタイトルを獲得し、ルノーもコンストラクターズタイトルを手にした。

「両方のタイトルを獲得できた。フェルナンドがドライバーズチャンピオンになり、僕たちはコンストラクターズチャンピオンにもなった。それはチームにとって本当に重要だった」

2006年も似た展開となった。

第2戦マレーシアGPでフィジケラは優勝を飾った。

「マレーシアでは勝ったし、本当に楽に走れていて、自信もあった」

「でもまた問題が起きた。僕自身のミスもあったし、チーム側のミスやクルマのトラブルもあった。2005年と同じようなシーズンだったけど、それでもまた両方のタイトルを獲得した」

このマレーシアGPが、結果的にフィジケラにとってF1最後の勝利となった。

フォース・インディアで起こしたスパの奇跡
フィジケラは2007年もルノーに残留したが、戦闘力を落としたマシンで厳しいシーズンを過ごした。

2008年にはフォース・インディアへ移籍。かつてのジョーダンを源流とするシルバーストンのチームへ、3度目の加入を果たした。

「簡単ではなかった。2008年のクルマは十分に速くなくて、12番手や14番手あたりを争っていた。でも2009年になるとクルマはよくなっていった」

そして2009年ベルギーGPで、その成長が一気に表面化する。

「開発はうまく進んでいた。スパでは新しい空力パッケージが投入されて、予選前の土曜午前に初めて使ったんだけど、完全に別のクルマになったと感じた」

「運転していて素晴らしかった。すごく安定していて、ニュートラルなクルマだった」

フィジケラは予選Q2で総合4番手につけ、Q3進出を果たした。

「予選ではトップ10に入れるかもしれないと思っていた。Q2で4番手だったからすごくうれしくて、トップ6くらいに入れたらと思っていた」

ところがQ3で驚異的なラップを刻み、まさかのポールポジションを獲得する。

「素晴らしいQ3のラップを走ったらポールだった。誰も予想していなかった。特に僕自身もチームもね」

「本当に素晴らしいラップタイムだったし、素晴らしいポールポジションだった」

決勝でも首位を守ってスタートしたが、セーフティカー導入後のリスタートでライコネンに抜かれた。

当時のフェラーリはKERSを搭載していた一方、フォース・インディアにはKERSがなかった。

「残念ながらキミに抜かれた。彼にはKERSがあったけど、フォース・インディアにはなかった。だから彼は約80馬力多い状態で僕を抜いた」

「抜き返すことは不可能だった。彼はKERSを使うことができたからね」

それでもフィジケラは最後までライコネンの背後を走り続け、2位でチェッカーを受けた。

「レース中ずっと同じ戦略で彼の後ろを走っていたけど、僕のほうが速かった」

「それでも僕たちにとって2位は優勝と同じだった。夢のようだったし、本当に素晴らしい結果だった」

これはフォース・インディアにとってF1初表彰台であり、フィジケラにとっては通算19回目、そして最後のF1表彰台となった。

ジャンカルロ・フィジケラ F1 フェラーリ

37歳で叶えたフェラーリの夢
2009年、フェラーリではハンガリーGPで重傷を負ったフェリペ・マッサがシーズン残りを欠場。

代役としてテストドライバーのルカ・バドエルがバレンシアとスパで出場していたが、結果を残せず、フェラーリはドライバー交代を検討していた。

そしてスパで表彰台に立ったフィジケラのもとへ電話が入った。

「ベルギーGPのあと、ステファノ・ドメニカリから電話があった。フェラーリはドライバーを探していた」

「子どものころから、それは僕の人生の夢だった。37歳で、F1に14シーズン近く参戦していたから、『今しかない』と思った」

フォース・インディアと契約解除について合意し、フィジケラは母国イタリアGPでフェラーリデビューを果たした。

「そしてモンツァでフェラーリからデビューした」

「そこで初めて、イタリア人ドライバーとしてフェラーリを走ることが何を意味するのか理解した。本当にすごかった。素晴らしかったし、たくさんの感情があった」

一方で、当時のF60は扱いやすいマシンではなかった。

「唯一の問題は、クルマが十分に速くなかったことだ。それにフォース・インディアとは運転の仕方がまったく違っていて、僕には難しかった」

「予選でいい位置を獲得するのが難しくて、それが決勝にも影響した。でも、それでもフェラーリを走れたんだ」

F1を離れても続いたフェラーリとの関係
2009年最終戦アブダビGPで16位となり、フィジケラのF1キャリアは通算231戦で幕を閉じた。

「2009年の終わりには2つの選択肢があった」

「マッサがフェラーリに戻ってくることになっていたから、F1に残ることはできてもトップチームではなかった」

ザウバーと再契約する可能性もあったという。

「ザウバーともう一度契約してF1に残るところまでかなり近づいていた。でも、耐久レースという新しい経験をして、フェラーリファミリーに残るという選択肢もあった」

「14シーズンを戦ったあと、新しい挑戦、新しい道を選ぶことにした。耐久レースへ行くことを決めたんだ」

その後はル・マン24時間レースでクラス優勝を2度達成し、WECやIMSA、プチ・ル・マンでもクラス優勝を挙げた。

「正しい選択だったと思う。たくさんのレースを本当に楽しむことができた」

「今もレースをしているし、フェラーリのファクトリードライバー兼アンバサダーでもある。本当に幸せだよ」

「過去に戻って変えたいとは思わない」
フィジケラが最後にF1を戦ってから16年以上が経過した現在も、彼はモータースポーツとの関係を保ち続けている。

F1のアンバサダーを務める一方、マルコ・チョーチとともにドライバーマネジメント会社を運営。FIA F3やF1 ACADEMYを含む複数カテゴリーで約20人のドライバーを支援している。

「そのなかの誰かをF1へ連れていきたいと思っている。簡単ではないけどね」

自身のキャリアについて後悔はないという。

「僕は幸せだよ。もちろん、夢はF1ワールドチャンピオンになることだった」

「それは達成できなかった。でも、もう終わったことだ」

フィジケラは、F1で長く戦えたことそのものが特別だったと振り返る。

「僕は幸運な人間だと思う。何年もの間、F1を走る20人のドライバーのひとりになることができたからね」

「たくさんの夢を実現できた。だから、これ以上を求めることはできない」

そして、自身が歩んできた道についてこう締めくくった。

「過去に戻って、自分の人生を変えたいとは決して思わない」