元F1ドライバーのジャン・アレジが、自身にとって特別な存在であるジル・ヴィルヌーヴへの思いを語った。フェラーリの象徴的なカーナンバー「27」を受け継いだアレジにとって、ヴィルヌーヴは幼少期にF1へ強く引き込まれるきっかけとなったドライバーだった。
1981年F1モナコGPで目にしたヴィルヌーヴの走り、フェラーリで「27」を手にした経緯、そして後に息子ジャック・ヴィルヌーヴ本人へ伝えた言葉まで、アレジがF1公式サイトの「F1 Icons」で振り返った。
テレビではなくサーキットで触れたF1
ジャン・アレジは1989年から2001年にかけてF1で活躍し、ティレル、フェラーリ、ベネトン、ザウバー、プロスト、ジョーダンなどでドライブした。その情熱的な走りで知られた一方、幼少期のF1に関する記憶はそれほど多くない。当時は現在ほどF1がテレビで放送されていなかったからだ。
「僕がとても幼かったころ、F1は今ほど人気がなかったから、テレビで見る機会はあまりなかった。僕が育ったアヴィニョンの近くではラリー・モンテカルロが開催されていたし、フランスにはル・マン24時間レースもあった。だから子どものころの記憶にはモーターレーシングがあるけど、F1はそれほど多くないんだ」
ただし、アヴィニョンからポール・リカール・サーキットは近く、F1を間近で見る機会はあった。
「アヴィニョンとポール・リカールはとても近くて、僕が子どものころはF1のウインターテストがポール・リカールで行われていた。そこへ行って、ドライバーのすぐそばにいて、マシンを見て、コーナーまで行って走りを見ることができた。本当に素晴らしかった」
1981年モナコGPで目にしたジル・ヴィルヌーヴ
そんなアレジの記憶に鮮烈に残っているのが、1981年F1モナコGPでのジル・ヴィルヌーヴの勝利だ。
フェラーリ126CKを駆ったヴィルヌーヴは、このレースで劇的な勝利を挙げた。その姿こそ、アレジにとって最初の本格的なF1の記憶だった。
「僕がF1について持っている最初の本当の記憶は、1981年モナコGPでのジル・ヴィルヌーヴの勝利だ。とにかくすごかった。彼のドライビングはものすごくスペクタクルだったし、実況が彼のレースを伝える様子もすごかった。それを見ながら完全に引き込まれてしまった。それが僕にとって最初の本当のF1の記憶なんだ」
アレジが育った時代のF1では、それぞれのドライバーが持つ個性的なドライビングスタイルを目で見て感じ取ることができたという。
「僕が育った時代のF1では、それぞれのドライバーのスタイルがはっきり分かった。たとえばアラン・プロストとアイルトン・セナのドライビングスタイルの違いは明確だった。レジェンドたちの話だけどね!」
当時はエンジン形式もチームによって異なり、それがマシンの性格にも影響を及ぼしていた。
「V8エンジンを使うドライバーもいれば、V10やV12を使うドライバーもいた。それによってマシンごとに空力も違っていて、ドライバーはそれに適応しなければならなかった」
「ジルは無謀だったわけではない」
アレジ自身も、ヴィルヌーヴと同じように情熱的で攻撃的なドライビングスタイルで知られた。そのため、自身の走りをヴィルヌーヴにならったのかと尋ねられることがあるという。
しかし、アレジは誰かのスタイルを意識して走ったことはないと説明する。
「僕のドライビングスタイルはジルを手本にしたのかと聞かれることがあるけど、それは不可能だと思う。僕は人生を通して、ただ本能で走ってきた」
一方で、ヴィルヌーヴの走りがしばしば「無謀」と評されることについて、アレジは明確に否定する。
「ジルは無謀なドライビングをしていたと言われることがあるけど、彼は無謀だったわけじゃない。僕にとって彼は、マシンの限界から最大限を引き出していた。そして、コース脇にマシンを止めないためにも最大限のことをしていたんだ」
その象徴としてアレジが挙げるのが、ヴィルヌーヴが母国カナダでフロントウイングを損傷しながら走り続けたレースだ。
「たとえばカナダでフロントウイングを壊した状態で走ったときも、彼はマシンがまだ走れると言って、そのまま続けようとした。それこそが、僕たちがジルを愛する理由のひとつなんだ」
英雄の死をニュース映像で目撃
アレジはヴィルヌーヴに強く憧れていたものの、彼が亡くなるまで実際にサーキットでレースをする姿を見ることはできなかった。
ヴィルヌーヴは1982年ベルギーGPの予選中、ゾルダーで事故に遭い、32歳で亡くなった。アレジは、その知らせをテレビのニュースで知った。
「残念ながら、ジルが亡くなる前に彼がレースをするところを実際に見る機会はなかった。彼が亡くなったことはニュースで見たのを覚えている」
当時のテレビでは事故映像がそのまま放送されており、その光景は若きアレジに強烈な衝撃を与えた。
「事故はひどいものだった。当時はすべてが映されていて、彼の身体がフェンスへ飛んでいくところまで見えた。とても悲しい瞬間だった。あんなヒーローがいて、その人に何が起きたのかを目の当たりにするのは、本当にショッキングだった」

フェラーリの象徴「27」を受け継いだアレジ
ジル・ヴィルヌーヴを語るうえで欠かせないのが、フェラーリ時代に使用したカーナンバー「27」だ。
そして、その番号は後にフェラーリで戦ったアレジ自身とも深く結びつくことになる。
「ジルは27番でレースをしていたことで有名だった。そしてもちろん、僕もこの番号と結びついている。僕のボートの名前も『27』だし、フェラーリファンにとって27は特別な番号だった」
1991年にフェラーリへ加入したアレジのチームメイトはアラン・プロストだった。当時、プロストが27番を使用し、アレジには28番が与えられた。
しかし、アレジが欲しかったのはヴィルヌーヴと同じ27番だった。
「僕がフェラーリへ移籍したとき、チームメイトはアラン・プロストだった。彼が27番で、僕は28番だった。僕はずっと『アランがいなくなったら、27番が欲しい』と言っていた。そして実際にそうなったんだ!」
プロストがフェラーリを去った後、アレジは念願だった27番を手にした。
さらに1993年、ゲルハルト・ベルガーがフェラーリへ復帰した際にも、27番をめぐるやり取りがあったという。
「1993年にゲルハルト・ベルガーがフェラーリに来て僕のチームメイトになったとき、彼が『27番が欲しい』と言った。でもチームは『ダメだ。それはジャンの番号だ』と言った。だから27は、本当にフェラーリの番号だったんだ」
アレジはフェラーリを離れるまで27番を背負って戦い、その番号はヴィルヌーヴとともにアレジを象徴するナンバーにもなった。
息子ジャック・ヴィルヌーヴとF1で対戦
1996年になると、アレジはF1でジルの息子ジャック・ヴィルヌーヴと戦うことになった。
ジャック・ヴィルヌーヴがウィリアムズからF1デビューした際、アレジは新聞で彼のインタビューを読んだ。しかし、父ジルとそのレガシーについてジャックが語った内容の一部に強い不満を抱いたという。
「彼がF1に来たとき、新聞を読んでいて、父親やジルのレガシーについてジャックが話していたことのいくつかに、僕はすごく腹を立てた」
その後、2人はエストリルでテストに参加することになった。
テスト終了後、ジャックのマネージャーからアレジに依頼があった。アレジが南フランスへ向かうことを知り、ニースへ戻る飛行機にジャックを同乗させてもらえないかというものだった。
アレジは快諾した。
「もちろん問題ないよ、と答えた」
「君はヒーローの中のヒーローの息子なんだ」
テストを終え、2人を乗せた飛行機が離陸すると、アレジは新聞記事を読んで以来抱えていた思いをジャック本人に伝えた。
「ジャック、二度と父親についてあんなことを言うな。君がここにいるのは君自身の才能があるからだし、情熱があるからだ。それは間違いない。でも、君はジル・ヴィルヌーヴの息子なんだ。ヒーローの中のヒーローなんだよ」
それほどまでに、アレジにとってジル・ヴィルヌーヴという存在は大きかった。
「僕は本当に怒っていた。すると彼は、『いや、本当にそういう意味で言いたかったわけじゃない』と説明してくれた」
ただし、ジャックと直接話したことで、アレジ自身も父親を幼くして失った息子が抱えていた複雑な感情に思いを巡らせるようになった。
「もちろん、子どものころに父親を亡くした彼にとって、それは難しいことだったと思う」
「きっと彼の内側には、ある種の……フラストレーションというより、痛みのようなものがあるんだと思う」
1981年モナコGPでテレビ越しに目にしたヴィルヌーヴの走りに魅了され、その後、自身もフェラーリのF1ドライバーとなって象徴的な27番を受け継いだアレジ。さらに年月を経て、その息子ジャックと同じグリッドで戦うことになった。
アレジにとってジル・ヴィルヌーヴは、単に憧れたF1ドライバーのひとりではない。幼少期の記憶からフェラーリでのキャリアまでをつなぐ存在であり、今なお「ヒーローの中のヒーロー」と呼ぶ特別な存在であり続けている。
