カテゴリー: スーパーアグリ

  • ビザ・キャッシュアップRBは「新たなスーパーアグリ」と元所属F1ドライバー

    ビザ・キャッシュアップRBは「新たなスーパーアグリ」と元所属F1ドライバー

    元F1ドライバーのアンソニー・デビッドソンは、ビザ・キャッシュアップRBとレッドブルの提携はかつて所属していたスーパーアグリとホンダの提携を思い起こさせると語った。ただし、RBをスーパーアグリのようなバックマーカーとは見ていない。

    スーパーアグリのF1での活動はかなり短く、ホンダエンジンを搭載したチームは2006年にグリッドに着き、2008年スペインGPを最後に撤退。参戦中に獲得したポイントはわずか4ポイントだった。

    デビッドソンは2007年にスーパーアグリに加入し、消滅するまで一緒にレースをした。ワークスホンダの1年落ちのマシンを使用したスーパーアグリでの経験は、2024年のF1シーズンに向けて技術的な結びつきを強めているレッドブルの2チームの間で現在彼が見ているものと非常に一致しているという。

    アンソニー・デビッドソン、バーレーンのRBに「大きな期待」
    レッドブル・レーシングは新シーズンからセカンドチームの名称をビザ・キャッシュアップRBに変更した。シニアアドバイザーのヘルムート・マルコは、RBがレギュレーションで認められているあらゆる方法でレッドブルへの依存を強化するよう要求している。

    そのため、マクラーレン・レーシングのCEOであるザク・ブラウンなどは厳戒態勢を敷いており、RBの前には好調なシーズンが待っている可能性があるというデビッドソンの予測は、ブラウンが抱いている懸念を裏付けている。

    「もちろん、あそこやレッドブルの誰に対しても失礼なことを言うつもりはない。ただスーパーアグリにいた頃を思います」とデビッドソンはSky Sports F1で語った。

    「レッドブルとRBには密接な関係がある。技術的な面でも、ホンダとスーパーアグリには共通点がある。それだけでも当時を思い出す」

    「もしかしたら、今年は大活躍するマシンが登場するかもしれない。来週のレースに向けて、彼らには大いに期待している」

    RB・フォーミュラワン・チームアンソニー・デビッドソンは2007年と2008年にスーパーアグリF1チームのドライバーを務めた。

    RBは、2024年F1開幕戦バーレーンGPでダークホースとなる可能性が指摘されているが、グランプリ優勝8回を誇るダニエル・リカルドは期待を和らげるような発言をしている。リカルドは、表彰台よりもむしろ、新キャンペーンの序盤戦でQ3進出やトップ10入りを果たすことがチームにとっての仕事だと感じている。

    バーレーン・インターナショナル・サーキットでメディアの取材に応じたリカルドは「僕たちはまだミッドフィールドで戦っている」と語った。

    「みんなが僕たちに興奮しているのは知っているけど、僕はそれを沈静化させようとしている」

    「たぶん、予想通りの位置にいると思う。もちろん、年を追うごとに強くなってミッドフィールドの最前線に立ちたいとは思っているけど、今はできればQ3やトップ10に入りたい。 でも、それ以上を期待するのは、おそらく興奮しすぎていると思う」

    角田裕毅がRB新時代のためにリカルドとコンビを組み続けている。セルジオ・ペレスが契約最終年を迎え、2人はレッドブルのシートを手にする可能性があることを知っている。

    日本人レーサーの角田裕毅は、この新しいRB時代でも引き続きリカルドのパートナーであり、セルジオ・ペレスが契約最終年を迎えるにあたり、レッドブルのシートを獲得できる可能性があることを二人は知っている。

  • スーパーアグリF1チームの参加申請を既存の全チームが同意した日

    スーパーアグリF1チームの参加申請を既存の全チームが同意した日

    スーパーアグリのF1への参加申請は2005年のこの日に現実になったが、正式な承認にはさらに1か月待たなければならなかった。参戦に必要な4,800万ドルの保証金が用意できず、最初の申請は却下された。

    2006年の公式期限後に再申請したため、既存の全チームの同意が必要だった。ミッドランドF1チームが最後の同意者となり、12月22日にようやく受理された。そして、保証金が支払われ、締切前日である2006年1月26日に、FIA(国際自動車連盟)からエントリーが認められた。

    元F1ドライバーの鈴木亜久里によって設立されたスーパーアグリは、ホンダの非公式『Bチーム』であり、公式には東京に本拠地を置いていた。しかし、実際の活動拠点はオックスフォードシャーのリーフィールドテクニカルセンターにある旧アローズのファクトリーだった。

    F1におけるスーパーアグリの急速な栄枯盛衰
    チームはオール日本人ドライバーでスタートした。後にインディ500ウィナーとなる佐藤琢磨がリードドライバーを務め、井出有治がセカンドカーを担当した。しかし、井出はわずか4レースにとどまり、サンマリノGP後にフランク・モンタニーに交代。

    モンタニーは7レースを走ったところで、日本人ドライバーの山本左近に交代した。しかし、このシーズンはリタイアが相次ぎ、ルーキーイヤーながらポイントを獲得することはできなかった。

    2007年も佐藤琢磨はチームに残り、イギリス人ドライバーのアンソニー・デビッドソンが加わった。佐藤はスペインとカナダで2度のトップ10入りを果たした。コンストラクターズ選手権ではスパイカーを上回り、マクラーレンは『スパイゲート』によってポイントを剥奪され、最下位に沈んだ。

    残念なことに、スーパーアグリは2年目のシーズンから結果を残すことができなかった。財政問題が深刻化し、チームは2008年の4レースを最後にF1から撤退。

    マグマ・グループによる買収案も破綻。チームに残された資産は最終的にドイツの実業家フランツ・ヒルマーに売却された。彼は2010年にブラバムの名を冠したチームでF1参戦を試みたが、失敗に終わっている。

  • ARTA、ブランド初の旗艦店にスーパーアグリのF1マシン「SA07」を展示

    ARTA、ブランド初の旗艦店にスーパーアグリのF1マシン「SA07」を展示

    ARTAは、5月12日にオープンする旗艦店『ARTA MECHANICS&INSPIRATIONS』にスーパーアグリのF1マシン『SA07』を5月末まで展示する。

    20年以上レースの世界で戦ってきたARTAのリブランディングに伴い、ブランド事業を集約する旗艦店『ARTA MECHANICS&INSPIRATIONS』が、東京新木場に1号店としてオープンする。

    ARTAは「レースはカッコよくなくちゃ」という鈴木亜久里の言葉をきっかけに、2018年からリブランディングに取り組んできた。リブランディングの代表的な取り組みが、高級腕時計メーカー「CVSTOS」とコラボレーション。ARTA CVSTOSのアパレルアイテムは、スポーツウェアとしての機能性や着心地の良さに加え、洗練されたかっこ良さとラグジュアリーさまでも兼ね備えたアイテムを展開してきた。

    その価値観は、ARTA MECHANICSにも踏襲。2022年に発表したNSXベースのカスタムカー「LEGAVELO」、そして、2023年に発表したGR86ベースのカスタムカー「VIGALE」にも、これ見よがしな自己主張ではなく、素材とデザイン、機能性を突き詰めた本物の価値を与えている。

    『ARTA MECHANICS&INSPIRATIONS』は、文字通りインスピレーションを受け取れる秘密基地を目指す。例えば、鈴木亜久里総監督や土屋圭市エグゼクティブアドバイザー、現役のレーサーを招いてのイベント。また、特別なカスタムカーを展示した空間で、クルマを中心にしたコミュニティスペースとして活用するなど、ただ物品を販売するだけでなく、ユーザーが非日常を体験できる施設となる。

    ARTA MECHANICS&INSPIRATIONS

    5月12日にオープンする『ARTA MECHANICS&INSPIRATIONS』には、スーパーアグリのF1マシン『SA07』が5月末まで展示される。

    SA07は、鈴木亜久里が立ち上げたスーパーアグリF1チームの創設2年目のマシン。ホンダが2.4リッター V8自然吸気エンジンを供給。第3戦スペインGPでは佐藤琢磨が8位入賞し、チームに初めてのポイントをもたらした。

  • スーパーアグリのF1エントリーが正式に受理された日

    スーパーアグリのF1エントリーが正式に受理された日

    スーパーアグリのF1エントリー申請は、2005年12月22日に実現。正式な承認は1か月待たなければならなかった。

    スーパーアグリの最初の試みは、チームのエントリーを確保するために必要な4,800万ドルの債券を発行できなかったため、却下された。

    2006年の正式な締め切り後に再申請したため、既存のすべてのF1チームの全会一致の同意が必要だった。これは最終的に12月22日に受領され、ミッドランドF1チームは最後に同意した。

    元F1ドライバーの鈴木亜久里によって設立されたスーパーアグリは、大部分が非公式のホンダの「Bチーム」であり、正式に東京に本社を置いていた。しかし、その実際の活動拠点は、オックスフォードシャーのリーフィールドテクニカルセンターにあった旧アローズのファクトリーだった。

    チームはオール日本人のドライバーラインナップからスタートした。将来のインディ500の勝者である佐藤琢磨がリードドライバーで、セカンドカーには井出有治が乗った。しかし、井出有治はF1サンマリノGPの後にフランク・モンタニーに交代するまで4レースしか続かなかった。

    フランク・モンタニーは、新しい日本人ドライバーである山本左近と交代するまで7レースしか続かなかった。しかし、チームのシーズンはリタイアが多発し、ルーキーシーズンではポイントを獲得できなかった。

    佐藤琢磨は2007年もチームに残り、英国人ドライバーのアンソニー・デビッドソンが加わった。佐藤琢磨はスペインとカナダで2回トップ10に入った。チームは、コンストラクターズチャンピオンシップでスパイカーに先んじて1年を終えた。「スパイゲート」のためにポイントを剥奪された後、マクラーレンが最下位となった。

    悲しいことに、スーパーアグリは2年のシーズンを積み上げることができなかった。2008年の4レースでチームは財政難に陥り、F1から撤退した。

    マグマ・グループから提案された買収は崩壊した。チームの残りの資産は、最終的にドイツの実業家フランツ・ヒルマーに売却された。彼は2010年にブラバムの名前でチームを組んでF1に参加しようとしたが、失敗した。

    スーパーアグリ ホンダF1

  • 佐藤琢磨と山本左近が再会したF1日本GP翌日にスーパーアグリが勝利

    佐藤琢磨と山本左近が再会したF1日本GP翌日にスーパーアグリが勝利

    F1日本GPでは、スーパーアグリで活躍した佐藤琢磨と山本左近が再会。その翌日、スーパーアグリという名の馬がデビュー戦で勝利を収め、Twitterのトレンドワードとなった。

    3年ぶりに鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GPで、国会議員となった山本左近とインディカーで活躍する佐藤琢磨というかつてスーパーアグリでF1を戦った二人が久々の再会を果たした。

    山本左近は「久しぶりのパドックでは昔からの仲間に多く会えてとても嬉しかったです!」とTwitterに写真を投稿

    「GP2の時にデータエンジニアだった彼が今はフェラーリでカルロスのエンジニアとしてステップアップしていて、とても嬉しかったです!!」

    「リビングレジェンド佐藤琢磨選手とも久しぶりの再会!!2006年の鈴鹿日本グランプリで、スーパーアグリF1チームで共に日の丸を背負って戦った経験は今でも忘れられません。当時の話をつい昨日の出来事のように昔話に花が咲きました」

    その翌日、Twitterのトレンドワードには「スーパーアグリ」の文字が。偶然にも同じ名前を冠した馬が阪神4R・2歳新馬(芝1400)でのデビュー戦で見事勝利を挙げた。

  • 佐藤琢磨、スーパーアグリの奇跡を回顧「信じられないストーリー」

    佐藤琢磨、スーパーアグリの奇跡を回顧「信じられないストーリー」

    スーパーアグリが誕生してから15年後、佐藤琢磨は奇跡を起こしたチームについて振り返った。

    2007年のF1スペインGP、ターン3を回った佐藤琢磨は泣いていた。だが、それはレースにフィニッシュできなかった。フィニッシュにはあと6周あった。一時的に前が見えなくなり、スーパーアグリの歴史的なポイントをほぼ犠牲にしかけた。佐藤琢磨はどうやってコース上にマシンを留めたのか覚えていていない。

    この瞬間までの佐藤琢磨とスーパーアグリの旅は流星的だった。短い期間だったが、そのタイムラインは埋め尽くされていた。初日にスタッフはほとんどいなかった。F1マシンは数年落ちで、実際に走れるのかどうかもわからないものだった。

    「とにかく信じられないストーリーです」と佐藤琢磨はMotor Sport Magazineに語り始めた。

    スーパーアグリと佐藤琢磨の旅は、2006年にジェンソン・バトンがウィリアムズへの移籍で心変わりし、契約を買い取ってホンダに残留することになったときに始まった。

    「実は、何が起こったのか分かっていません」と佐藤琢磨は語る。

    「2006年はルーベンス(バリチェロ)とホンダにいるはずでした。その後、ジェンソンが移籍しないを決めた…もしくは彼は戻ってきました」

    その結果、ホンダの佐藤琢磨のスペースはなくなった。だが、F1では物事はすぐに変わる可能性がある。ホンダのおえら方は、2005年後半に日本を代表するレーシングドライバーのために新しいチームを作ることを決める。

    「その後、彼らが新しいチームを作ることを検討していると聞きました。何人かの幹部に会い、彼らはそれが実現すると僕に言いました、そして、それだけでした! もちろん、当時のアイデアは紙にしか存在していませんでした…」

    元F1ドライバーの鈴木亜久里がチームプリンシパルになり、F1エントリーに必要な6500万ドルの預金を預けるためのローンを確保した。

    佐藤琢磨とホンダは今、彼らの新しい「チーム」を持っていた。そこから、それを動かすためにマシン、ファクトリー、スタッフが必要となった。リーフィールドにあるアローズの古いファクトリーが確保されていたが、初期段階ではあるものの、その計画の希薄さは佐藤琢磨を驚かせた。

    「僕が到着したとき、そこで働いていたのは6人だけでした!」と佐藤琢磨は笑いながら振り返る。

    「少数の主要メンバーだけで、メカニックはいませんでした。でも、計画はありました」

    そういった計画は、新生のF1プロジェクトにはよくあるものだが、時間との戦いは凄まじいものだった。パーツを集めるために世界中を探さなければならなかった。

    「(シーズン開幕)バーレーンまで90日以内にそれを実現しなければなりませんでした。それは大きな挑戦でした」と佐藤琢磨は語った。

    スーパーアグリが買収したのはアローズのファクトリーだけではなかった。チームは、2002年に4レースで使用されたA23を所有していた。

    残念ながら、2台のF1マシンのフルセットを構成するためのすべてのコンポーネントが揃っていなかったため、不足しているコンポーネントのグローバル検索を開始した。

    「英国とヨーロッパで利用可能なA23モノコックがいくつかありました。それで、チームはコンポーネントの収集を開始しましたが、それでも十分ではありませんでした」と佐藤琢磨は思い出す。

    「メルボルン空港の免税展示エリアにショーカーとして使用されているアローズがあることがわかりました。チームはそれを購入して英国に出荷しました。それが僕のレーシングカーでした!」

    ようやくスーパーアグリには2台のA23が揃ったが、それを走らせるためにはスタッフが必要だった。

    「毎週の人が増えていました。最初から間もなく30人のメカニックがいたと思います」と佐藤琢磨は回想する。

    「その後、12月から1月にかけて、どんどん大きくなっていきました。60人に到達したと思います。ホンダには600人いました」

    スーパーアグリ SA05

    スーパーアグリSA05はシーズンが始まる前にシェイクダウンに間に合うように準備ができていなかった。

    「リーフィールドの組み立てエリアで最初のスーパーアグリを見たとき、それは真っ白なマシンでした」と佐藤琢磨は語った。

    「本当にゼロから何かを作り、90日でバーレーンに届けることをスタッフたちは実現させました。彼らは素晴らしい仕事をしました」

    言うまでもなく、4年前のF1カーを使用することに技術的な問題がないわけではなかった。

    「もちろん、現行の2006年のホンダエンジンを使用しましたが、2002年以前のものであるギアボックスも使用する必要がありました」と佐藤琢磨は語る。

    「インプットシャフトの位置が非常に異なっていました・ホンダエンジンはとても低いものでした。コストの関係でそれを変更することはできませんでした。そのため、ギアボックスのインフラストラクチャに合わせてエンジンを約1インチ上げる必要がありました。エンジンの下はマシンの反対側が透けて見えました!」

    佐藤琢磨が説明するように、A23は本当に限界を押し広げていたが、おそらくグランプリチームが望むような方法ではなかった。

    「もちろん、F1では重心を低くしたいので、マシンを軽くし、マシンのすべてをできるだけ低くしようとします。すべてミリメートル単位で必要になってきます」と佐藤琢磨は語った。

    「その後、想定よりも1インチ高いエンジンが出来上がってきました。ご想像のとおり、マシンは2006年のFIA規制をぎりぎりで通過しました」

    「シェイクダウンの時点では、パワーステアリングすらありませんでした。技術的に進歩した2004年と2005年にBARを運転した後、それは少し衝撃的でした! でも、すべてが機能していたことを嬉しく思いましたね」

    しかし、スーパーアグリがバーレーンGPのグリッドに並ぶと、フィールドに追いつくための彼らのタスクの規模が明らかになった。

    ほぼ古代のアローズは、佐藤琢磨がポールシッターのミハエルシューマッハに6秒遅れて予選を通過し、スーパーアグリのチームメイトである井出有治がさらに9秒遅かった。

    「僕たちは10周後に周回遅れにされました!」と佐藤琢磨は笑う。

    「でも、主な目標は、できるだけ多くのデータを収集してレースを終えることでした」

    「スペアパーツも、(スペアの)フロントウィングも何もありませんでした。その年の最初の3レースはフライアウェイだったので、すべてメルボルンとその後のレースに行かなければなりませんでした」

    「2回目のスティントで、(ステアリングの)アラームの1つがクリスマスツリーのライトのように鳴り始め、パンクしたと言いました。何も感じませんでしたが、スペアパーツがなかったので、ピットインして問題がないことを確認しました」

    「マシンをピットに持ち込むと、レースエンジニアのジェリー・ヒューズが僕のステアリングを見に来て、だた『ゴ、ゴー、ゴー!」と言いました。

    「タイヤの空気圧センサーすら持っていなかったことがわかりました。私がパンクしたことをマシンは知ることはできませんでした!」

    佐藤琢磨は、最初の3レースを終えることになり、それは彼の言葉では「奇跡」だった。スーパーアグリは、少なくともガレージの佐藤琢磨の側では、目覚ましい進歩を遂げた1年になった。

    だが、チームメイトはそうはいかなかった。井出有治は、すべての予選セッション(メルボルンでは11秒)でポールから少なくとも7秒離れた後、イモラでクリスチャン・アルバースに追突。FIAはすぐに彼のスーパーライセンスを削除し、フランク・モンタニー、そして山本左近がシーズンの残りの期間彼に代わった。

    だが、佐藤琢磨とスーパーアグリは、シーズンの終わりまでにフィールドの上半分に入ろうとしていた。彼らは2006年のF1ブラジルGPでは10位でフィニッシュした。

    「僕たちは実際にトップ10で競争していて、トロロッソと戦っていました。それは素晴らしかったです」と佐藤琢磨は語った。「シーズンのスペースで下から上に行くことはかなり信じられないことです。みんなすごかったです」

    その進歩は2007年まで続いた。スーパーアグリは、ホンダがレースで優勝した2006年のマシンであるRA106を採用し、SA07に作り直した。

    チームが別のF1チームによって製造されたマシンを使用することは許可されないいう理由で、エントリーはウィリアムズとスパイカーによって抗議され、FIA衝突試験に失敗した。

    SA07は、2007年シーズンが始まる2日前に「発表」されただけで、多くの人が今年も駄目だと思っていた…

    だが、初レースで佐藤琢磨はQ3に進出して10番グリッド、新たに加入したアンソニー・デビッドソンが11番手で戻ってきた。ホンダのワークスチームのジェンソン・ボタンとルーベンス・バリチェロは14番手と17番手だった。

    その安定したパフォーマンスはF1スペインGPまで続いた。レース終盤、スーパーアグリの侍はジャンカルロ・フィジケラのルノーを追い詰めていた。最後のポイントを獲得できる8位を走行していた“フィジ”は20秒前にいた。

    佐藤琢磨は全力でプッシュするように伝えられ、ルノーは、スーパーアグリを寄せ付けないために最後のピットストップで燃料だけを追加した。

    「最後のスティントでずっと地獄のようにプッシュしなければならないことはわかっていました。すべてが予選ラップでした」と佐藤琢磨は語った。

    「フィジがピットから出てくるのが見えて、ターン1で彼をオーバーテイクしました」

    かろうじて1歳のスーパーアグリがポイント圏内に入った瞬間だった。しかも、相手は現役ワールドチャンピオンチームのルノーだった。

    「感動的でした。ターン2で目から涙が出ました。それからターン3、長いコーナーがありました。右目から涙が左に流れ始めました」

    「視界をほとんど失いましたが、どれほど幸せだったことでしょう!」

    佐藤琢磨は次の6周の間、なんとか涙を来られてラインを越え、若いチームにとってほとんど信じられないポイントを獲得した。

    「彼らはとても大喜びしていて、スタッフはピットウォールから落ちそうになっていました! 素晴らしい瞬間でした。それからカナダで起こったことはとにかく非現実的でした…」

    佐藤琢磨

    2レース後、スーパーアグリに最高の瞬間が訪れた。この歴史的なモントリオールのパフォーマンスは、驚きべきピットコールとレースインシデントの連続によって生まれた。

    佐藤琢磨は残り20周で5番手を走行しており、その年にワールドチャンピオンを獲得したキミ・ライコネンよりも速くラップしていた。しかし、問題があった。佐藤琢磨は両方の必須のコンパウンドを使用していなかった。そしてピットストップをすれば、はるか後方に順位を下げることになった。

    スーパーアグリには神の介入が必要だった。そして少しの幸運が必要だった。

    それは最初にスパイカーのクリスチャン・アルバースにとってもたらされた。オランダ人は50周目にシケインを逃し、フロントウィングを壊し、トラック全体にデブリをばらまいた。

    セーフティカーが出て、佐藤琢磨はすぐにピットに飛び込み、チャンスをつかんだ。唯一の問題は、予定外のタイヤ交換についてピットクルーに話す時間がなかったことだ。

    「少しパニックになりました!」と佐藤琢磨を回想する。「でも、僕たちはほんの数秒しか失っていなかったと思います。そして、僕が欲しかったハードタイヤを手に入れました」

    55周目にトロロッソのヴィタントニオ・リウッツィが“ウォール・オブ・チャンピオンズ”でクラッシュ。2台のマシンがすぐにピットインして佐藤琢磨は突然再びポイントに戻ったが、もっと多くを望んでいた。

    タイヤに厳しいジル・ヴィルヌーヴ・サーキットは先にスタートした他の人々を苦しめ始めた。

    「もちろん、それが鍵でした」と佐藤琢磨は語る。「その日のデグラデーションはものすごかったです」

    トヨタのラルフ・シューマッハは、最終シケインのブレーキングでアウトサイドを回った佐藤琢磨を抑えることができなかった。そして、2週後に佐藤琢磨は、マクラーレンのフェルナンド・アロンソをまったく同じアクションでオーバーテイクした。このオーバーテイクは今でも語り草となっている。

    「マクラーレンをドライブする世界チャンピオンを小さなスーパーアグリチームが追い抜く。それはとにかく素晴らしかったです」と佐藤琢磨は語った。

    「タイヤコンパウンドに違いがあったことは知っていますが、それは重要ではありません。重要なのは、僕たちが一生懸命働いて、それが巡ってきたこときにチャンスをつかんだということです。美しかったですね」

    ちょうど18ヶ月のスーパーアグリにとっては驚異的な3ポイントだった。

    スーパーアグリは短期間明るく輝いていたが、トラックの内外で奇跡に近いパフォーマンスをした後、2008年に4戦出場した後、夢は終わった。

    「スポンサーシップの一部は発生しませんでした」と佐藤琢磨は語る。

    「基本的に資金は届かず、破産しました。亜久里さんの気持ちは想像できません。特に、初日から一生懸命働いていたスタッフたちにとって、それは非常に悲しいことでした。クリスマス休暇以外は休みがなかったと思います!」

    「彼らはとても個人的に献身し、僕たちのためにすべてをしてくれました。僕たちが撤退することを彼らに告げたとき、それはひどいものでした」

    仮にスーパーアグリが撤退していなければ、すべてがとても異なるものになっていかもしれない。スーパーアグリは2009年に大きな計画を立てていた。

    「僕たちのメインの空気力学者であるベン(ウッド)は、ブラウンのディフューザーを開発した男です」と佐藤琢磨は語った。

    「財政面が落ち込んでおらず、生き残っていたら、2009年のレッドブル/トロロッソと同様の関係を築いていたでしょう。基本的には、世界選手権で優勝したブラウンチームと非常によく似た姉妹車を走らせていたでしょう」

    「僕とホンダの人々がこの状況にどのように不満を感じていたかは理解できますが、それはすべて歴史です」

    スーパーアグリの撤退は佐藤琢磨のF1キャリアの終わりを意味した。2009年にトロロッソのシートは目前にセバスチャン・ブルデーの手に渡り、2010年にローラの新規参入は叶わなかった。

    だが、その後、佐藤琢磨はアメリカで成功を収める。インディカーに転向した佐藤琢磨は、インディ500を2回制した。今年、佐藤琢磨はインディカーで13シーズン目を迎え、デイル・コイン・レーシングでドライブする。

    佐藤琢磨が、スーパーアグリを“自分”のチームのように感じていたことは明らかであり、レースをするためにどんなことであろうと熱心に取り組んだ当時のスタッフを愛情をこめて思い出した。

    「僕は今でも、熱心に取り組み、多くの犠牲を払ってくれたすべての人を愛しています。彼らの努力は素晴らしかったです」と佐藤琢磨は語った。

    「この話はジャーナリストにも話したことがありませんが、ファンは今でもスーパーアグリについて僕に話したいと思っています」

    「チームのなじみのある顔がまだF1で働いているのを見ると本当に嬉しいです」

  • アンソニー・デビッドソン 「F1に金ではなく実力で到達できたことは誇り」

    アンソニー・デビッドソン 「F1に金ではなく実力で到達できたことは誇り」

    アンソニー・デビッドソンは、F1にお金ではなく実力でたどり着いたこと誇りに思っていると語る。

    42歳になったアンドニー・デビッドソンは、11月6日にバーレーンで開催されるFIA 世界耐久選手権(WEC)の最終戦でレースキャリアに終止符を打つことを発表した。

    アンソニー・デビッドソンは、そのレースキャリアのなかで、2007年のスーパーアグリでのF1フル参戦を含め、F1で24戦のスタートを切り、ベストリザルトは11位だった。

    アンソニー・デビッドソンは、F1でもっと良い結果を残せたと感じているが、その時代にF1でレースができたことに感謝しており、とりわけ、お金ではなく実力でそこにたどり着いたことを誇りに思っていると振り返る。

    「2000年代にはV10エンジンとタイヤ戦争があった。素晴らしかった」とアンソニー・デビッドソンは語る。

    「当時はもっと自分はもっとできると感じていたけど、あのようなメガカーでパフォーマンスできたことを嬉しく思っている」

    「才能だけでF1に到達できたことを誇りに思っている。僕はそこにたどり着くためにお金を払わなかった」

    アンドニー・デビッドソンは、今後はプロのレースとして活動はしないが、F1界への関与は継続し、専門家としてだけでなく、メルセデスのシミュレーター作業も続けていていく。

    アンソニー・デビッドソンは、テクノロジーが非常に優れているので、実際のレースの不足をいくらか補えるが、いつかにレースに戻ることも除外してはいない。

    「僕はいつもレーストラックでクルマを速く運転することを楽しんできたし、それが僕を離れることは決してないと思う」とアンドニー・デビッドソンは語った。

    「シミュレーターは非常に良くなったので、メルセデスでの僕の仕事がほとんどのニーズを満たしてくれるだろう」

    「いつか友達と一緒にクルマを運転するかもしれない。未来がどうなるかはわからない」

    アンソニー・デビッドソンは、F1で大きな成功を収めることはできなかったが、2014年にトヨタでWECでタイトルを獲得し、ワールドチャンピオンとして名が刻まれている。

    アンソニー・デビッドソンは、そのことに大きな誇りを持っており、ル・マン24時間レースで優勝にわずかに手が届かなかったことをいくらか埋め合わせてくれていると感じている。

    「FIAのワールドチャンピオンになれたことは、大きな誇りを持って振り返ることができる」とアンソニー・デビッドソンは語った。

    「僕は2014年にチャンピオンシップを獲得した。フルシーズンでタイトル獲得キャンペーンをまとめるには、ル・マンのようなビッグイベント、単一のレースに勝つよりも多くのスキルセットが必要だといつも言ってきた」

  • アンソニー・デビッドソン、レーシングドライバー引退を表明

    アンソニー・デビッドソン、レーシングドライバー引退を表明

    元F1ドライバーのアンソニー・デビッドソンは、来週末のFIA世界耐久選手権(WEC)を最後にレーシングドライバーとしてのキャリアを終了することを発表した。

    バーレーン6時間レースのLMP2クラスにジョタ・レーイング(Jota Racing)から参戦して表彰台を獲得した翌日、アンソニー・デビッドソンは「残りあと1戦。それが僕がプロのレーシングドライバーとしての最後のレースになると決めた」とツイートした。

    「信じられないような旅であり、忘れられない旅だった。その途中で関与してくれたすべての人々に感謝するす」

    8歳でカートレースを始めた英国出身のアンソニー・デビッドソン(42歳)は、1999年の英国フォーミュラフォード・ウィンターシリーズ・チャンピオンシップと翌年のフォーミュラ・フォード・フェスティバル・ワールドカップで優勝し、早い段階で成功を収めた。

    ヨーロッパピアンF3カップシリーズを制し、2001年の英国F3チャンピオンシップで準優勝したアンドニー・デビッドソンは、ラッキーストライクBARホンダでテストドライバーの役割を果たし、F1に進んだ。

    そして、2002年のF1ハンガリーGPでマークウェバーとともにミナルディでF1デビューを果たし、同じ年にF1ベルギーGPにも参加。しかし、2005年のF1マレーシアGPで病気で欠場した佐藤琢磨の代役として参戦するまで長い間待たされた。

    そして、2007年にスーパーアグリとついにフルシーズンでF1参戦。2008年にはさらに4戦を戦ったが、スーパーアグリは撤退。通算24戦のグランプリに出場した。

    その後、2009年にチャンピオンシップを獲得したブラウンGPでリザーブドライバーに就任。それ以来、アンソニー・デビッドソンはプジョーとトヨタでWECに参戦し、耐久レースで成功を収めた。また、メルセデスF1チームのリードシミュレータードライバーの1人も務めた。

    2014年にはトヨタでWECドライバーズチャンピオンを獲得し、ル・マン24時間レースでは2位表彰台を2回獲得したが、2017年にフェルナンド・アロンソの加入によって、トヨタのLMP1のシートを失った。

    昨年夏、アンソニー・デビッドソンは、トヨタとの新契約にサインした後、40歳となる2019年シーズンの終わりに引退を検討していたと語った。

    「その契約にサインしたとき、トヨタとル・マン制覇を目指すのはあと3年だと思った」とアンソニー・デビッドソンは語った。

    「間違いなく、その時点で引退すると考えていた」

    だが、その後、LMP2に戻り、レースへの愛情が活性化したとアンソニー・デビッドソンは語った。

    「あらゆるプレッシャーが伴うメーカーでレースをするよりもはるかに楽しかった」とアンソニー・デビッドソンは語る。

    「ある意味、トヨタではレースへの愛情を完全に失っていたので、再びレースに恋をする必要があった」

    今シーズン、アンソニー・デビッドソンは、ロベルト・ゴンザレスとアントニオ・フェリックス・ダ・コスタとともに、ジョタ・スポーツからWECのLMP2クラスに参戦し、現在クラス3位につけている。

    ドライバーとしての活動と並行して、アンソニー・デビッドソンは、コメンテーターおよび評論家としても活躍している。

  • F1事件簿:井出有治のスーパーライセンス剥奪処分

    F1事件簿:井出有治のスーパーライセンス剥奪処分

    2006年のF1世界選手権ではスーパーアグリのドライバーである井出有治にスーパーライセンス剥奪という前代未聞の処分が下された。

    オールジャパンを旗印に立ち上げたスーパーアグリF1チームは、佐藤琢磨のチームメイトとして、前年フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)をランキング2位で終えていた井出有治を起用した。

    当初、ホンダF1チームのシャシーの流用を目論んでいたスーパーアグリだったが、コンコルド協定の“参戦中のチームのローリングシャシは使用できない”という原則をクリアする説明を見つけられずに断念。2002年にアロウズが使用していた『A23』をベースにして2006年のレギュレーションに適合させた『SA05』を開幕からの数戦の為に製作することとなった。

    佐藤琢磨が使用したシャシーはミナルディオーナーのポール・ストッダートから買い取ったもの、井出有治のシャシーは約3年間メルボルン空港に屋外展示され雨風に晒されていたものだった。

    満足なテストもできない4年落ちのシャシーを改造した急造マシンである『SA05』は、当然ながら、他チームと比較してパフォーマンスも信頼性も劣っていた。佐藤琢磨でも完走がやっという状況で、ぶっつけ本番でのF1デビューとなった井出有治にとっては厳しい状況だった。予選では現在規定されている107%以内のタイムを記録することはできなかった

    そのよな状況のなか、第3戦オーストラリアGPでは初完走を果たした井出有治だったが、第4戦サンマリノGPでは1周目にクリスチャン・アルバース(MF1)と接触し、アルバースのマシンは横転しリタイアとなった。

    FIA(国際自動車連盟)は、第5戦ヨーロッパGPの前週に第4戦サンマリノGPにおける井出有治のクリスチャン・アルバースとの接触及び開幕3戦のパフォーマンスに関して、スーパーライセンス取り消しも視野に入れた審議をしているとスーパーアグリに通知。さらに、スーパーライセンスが取り消される前に井出有治をレースドライバーから外すよう勧告した。

    スーパーアグリはすぐにFIAと連絡を取り、チームとしてはヨーロッパGPでは井出有治を走らせたい意向を伝えたが、FIA側で決めることであるという返事が返ってきただけのみ。そのため、チームはスーパーライセンス取り消しという最悪の事態を避けるために、断腸の思いでヨーロッパGPから井出有治をはずす決定をし、井出が一日でも早くレースドライバーとして復帰するための計画を立てるべく、全力をあげることにした。

    チーム代表の鈴木亜久里はドライバー交代について「我々は、井出がF1の経験を積むためにチームのテストに限り走行させるというFIAのアドバイスを受け入れることにした。チームは今まで彼がF1という新しい環境でうまくやって行けるように最善の配慮をしてきたし、また井出もいろいろと難しい環境のなか、とてもよく頑張っていた。チームとしては、シーズン前にもっときちんとテストをさせてあげたかった。今後に関しては早くF1のドライバーシートに復帰できるよう精一杯協力をしていきたい。今回の判断により、ヨーロッパGPではフランク モンタニーがセカンドドライバーとして参戦することになった」と語っている。

    しかし、その甲斐もなく、その後FIAは井出有治のスーパーライセンスを取り消す旨をチームに通告した。

    鈴木亜久里は「今回の件はとても残念でなりません。FIAにはなんとかならないかと交渉を続けましたが、厳しい判断が下されてしまいました。FIAからは井出のスーパーライセンスの再取得の可能性を否定されているわけではありませんので、今後もチームとしては井出のためにできる限りのことをやっていきたいと考えています」と語った。

    その後、株式会社エー・カンパニー(SUPER AGURI F1 TEAM)のマネージメントドライバーとしてフォーミュラ・ニッポンや鈴鹿1000kmレースに参戦したが、F1グリッドに戻ってくることはなく、井出有治のF1ドライバーとしてのキャリアは4戦で終わることになった。

    F1のシーズン途中にスーパーライセンスの剥奪処分を受けたのは、井出有治が史上初であり、以降は起きていない。

    井出有治 スーパーアグリ

  • スーパーアグリがF1撤退を発表した日 / F1特集

    スーパーアグリがF1撤退を発表した日 / F1特集

    スーパーアグリがF1撤退を発表してから12年の月日が流れた。スーパーアグリは、2008年5月6日に記者会見を開き、鈴木亜久里代表の口からF1撤退が発表された。

    スーパーアグリF1チーム、2006年からプライベーターチームとしてF1に参戦。2007年はチーム結成22戦目(スペインGP)で初ポイントを獲得、ランキング9位という成績を残したが、チームは3年という短さで幕を閉じることになった。

    鈴木亜久里 (スーパーアグリF1チーム代表)
    「F1チームオーナーになるという私の昔からの夢を実現すべく、2005年11月にF1にエントリー申請をし、2006年よりスーパーアグリF1チームとして、2年と4ヶ月にわたりF1の世界で戦ってきたが、本日その活動に終止符をうつことになった。多くの自動車メーカーが参戦しているこの世界でプライベーターとして戦いを挑み、昨年はチーム参戦から、わずか22戦目にして初ポイントを獲得しランキング9位となる快挙を達成することができた。しかし、昨年のシーズン初頭から、パートナーとして一緒に戦っていくはずだったSS United Group Company Limitedの契約不履行によりチームは経済的なバックボーンを失い、経営は非常に厳しい状況に追い込まれた。また、カスタマーカーに関する方向性の変化などチームをとりまく環境変化もあり、チームは新たなパートナー探しを精力的に続けてきたが、その活動は難航した。その間、ホンダから支援を受けながら、なんとか今日まで持ちこたえてきたが、現在のF1を取り巻く環境の中で、今後も安定的に活動を継続していく目処が立たず、本日、F1から撤退するという苦渋の決断をくだすこととなった。ここまでチームを支えてくれたホンダ、ブリヂストン、そしてスポンサーの皆様、いろいろな状況の中でアドバイスを頂いたF1関係者の皆様、チームが苦しい状況の中でも、モチベーションを絶やさず働いてくれたチームスタッフ、厳しい状況の中でも頑張ってくれたアンソニー、チーム立ち上げから一緒に戦いチームを引っ張ってくれた琢磨、そして、これまでスーパアグリF1チームを応援してくれてきた世界中のファンの皆様に最大の感謝を表したい」

    大島裕志 (ホンダ 執行役員 広報・モータースポーツ担当)
    スーパーアグリF1チーム(SAF1)は日本のチームとして、多くのファンに夢を提供してきました。また、佐藤琢磨選手、アンソニー・デビッドソン選手も、その豊かな才能と努力により常にエキサイティングなレースを行うなど、F1のファン層の拡大に貢献してきました。ホンダは、2005年スーパーアグリF1チーム設立以来、その趣旨に賛同し、エンジン提供をはじめ経済的支援を行ってきました。特に2007年以降、チームの財政状況が厳しさを増した中で、スポンサー、パートナー獲得にむけてチームと共に様々な話し合いを続けてきました。2008年シーズン開始にあたり、チームの中期的かつ安定した運営を実現する為に有力なパートナー候補であった英国 Magma Groupとの交渉をスーパーアグリF1チームが開始する中で、ホンダとしても様々なサポートを提案し3者間で合意にいたる段階まで達していましたが、Magma Group及びその資金提供者から突然、計画を中止する通告がありました。その後も引き続き、最善の努力を重ねてまいりましたが、この度、鈴木亜久里代表から、チームが自立した運営基盤を確立する見通しが立たずF1活動から撤退するという説明を受けました。スーパーアグリF1チームのF1活動撤退は誠に残念な決定ではありますが、スーパーアグリF1チームが自立し将来的にも安定した運営基盤が確保できない状況ではチームの決定はやむを得ないものと受け止めました。ホンダとともに戦ってきた、チーム関係者の皆さま、そして、応援していただいたファンの皆さまに深く感謝を申し上げます。

    スーパーアグリの軌跡

    ~スーパーアグリ誕生 (2005年)~

    9月 2006年からの参戦に向けて水面下で活動を開始。鈴木亜久里がダニエル・オーデットに協力を要請。

    10月4日 ホンダの記者会見で、ホンダが2006年から参戦を予定している新チームへのエンジン提供を認める。また佐藤琢磨が同チームからオファーされていることが明らかになる。

    10月日本GP 鈴木亜久里が新チームを立ち上げるとの情報が流れる。

    10月10日 新チームがホンダの2006年型シャシーと同じものを使用するとの情報が流れる。

    10月中旬 新チームが使用するファクトリーは、旧アロウズとの噂が流れる。

    10月26日 スーパーアグリ・フォーミュラ1がFIAにエントリーを申請。

    10月下旬 イギリス・リーフィールドにある旧アロウズのファクトリーで活動を開始。

    スーパーアグリの参戦を発表する鈴木亜久里(2005年11月1日)

    11月1日 SUPER AGURI FORMURA1参戦発表記者会見

    11月23日 過去2年間に製造された知的財産権の売買が認められず、ホンダの者ではなく、自社製シャシーでの参戦を目指すことが明らかになった。車体は2002年に撤退したアロウズのA23を改造。シャシーの所有権を持つ、ポール・ストッダードが交渉を認める。

    12月1日 書類上の不備でエントリーが認められず、再申請へ。全10チームと交渉開始。

    12月21日 全10チームの賛同が得られ、FIAへ再申請することを発表。

    ~スーパーアグリ “奇跡の参戦” (2006年)~

    スーパーアグリ(2006年)

    1月26日 FIAがエントリーを承認。

    1月30日 ブリヂストンがタイヤ供給を発表。

    2月7日 マシンスペック&体制発表

    2月上旬 マシンがクラッシュテストを通過

    2月11日 表参道で初めてのプロモーションイベントを実施。

    2月14日 イギリス・ケンブルで参戦マシンSA05シェイクダウン

    2月15日 ドライバーラインナップ発表(佐藤琢磨&井出有治)

    2月21~23日 バルセロナ合同テストに参加

    3月10日 開幕戦バーレーンGPでスーパーアグリF1チームがF1デビュー。予選20位、決勝18位(佐藤琢磨)

    5月5日 第5戦ヨーロッパGPにおいて、スーパーライセンスを剥奪された井出有治に代わり、フランク・モンタニーが出走。

    7月28日 第12戦ドイツGPにて、新車SA06がデビュー。また、フランク・モンタニーに代わり、山本左近がF1デビュー。

    8月25日 第14戦トルコGPで、アップデートされたSA06Bが登場。

    10月22日 最終戦ブラジルGPで、佐藤琢磨がチーム最高の10位でシーズンを終了。

    11月15日 チーム体制発表。ドライバーは佐藤琢磨とアンソニー・デビッドソンに。

    12月8日 モナコで開かれたオーナー会議で、スーパーアグリとトロ・ロッソのカスタマーシャシー問題に関して調停持ち込みを示唆。

    12月16日 サード・ドライバーにギド・ヴァン・デル・ガルデを起用。

    12月26日 山本左近をセカンドテストドライバーに起用。

    2007年 ~4ポイント獲得の大躍進~

    スペインGPでチーム初ポイントを獲得(2007年)

    2月2日 スーパーアグリでのテストデビュー翌日にギド・ヴァン・デル・ガルデがスパイカーとのテストドライバー契約を発表し、二重契約が発覚。

    3月16日 開幕戦オーストラリアGPにて、新車SA07がデビュー。予選で佐藤琢磨がチーム初となるQ3進出を果たす。SSユナイテッドが新たなスポンサーとして発表される。

    5月13日 第4戦スペインGPで、佐藤琢磨がチーム初の8位入賞。

    5月15日 ジェームス・ロシターとテストドライバー契約

    6月10日 第6戦カナダGPで、佐藤琢磨が6位入賞。

    8月16日 元F1ドライバーでGP2チームオーナーのエイドリアン・カンポスが、チームへの投資交渉を行っていることが報道される。

    8月24日 メインスポンサーの「SSユナイテッド」に対し、スポンサー料未払いの件で法的手続きを開始。

    8月31日 カンポスとGPチームを共同でしシェアするアレハンドロ・アガグへの株式売却交渉中と報道される。

    9月 マグマ・グリープとの交渉を開始。

    10月31日 ルーベンス・バリチェロ移籍の噂

    ~スーパーアグリF1撤退へ (2008年)~

    2008年5月6日 スーパーアグリのF1撤退を発表

    1月21日 アレハンドロ・アガグへの株式売却を否定

    1月31日 インドのスパイスグループが、株式買収に興味を抱く

    2月8日 ロシア投資家が株式買収に興味があるとの報道

    2月中旬 マグマ・グループへのチーム株式譲渡に関して大筋で合意

    2月19日 バルセロナで予定されていた新車発表と会見が延期され、21日までの合同テストもキャンセルに。

    2月25日 バルセロナでの合同テストをキャンセル

    4月16日 マグマ・グループとの交渉が打ち切られたとの声明を発表

    4月24日 契約交渉が継続中であることが明らかになる

    5月2日 ヴァイグル・グループと株式取得について最終段階であるとの共同声明を発表

    5月4日 トルコGPでトラックが入場を拒否される

    5月6日 鈴木亜久里が緊急会見。スーパーアグリのF1撤退が発表される。

    5月7日 警告の資産管理会社PKFとスーパーアグリF1チームが資産整理に入る。