カテゴリー: ブラウンGP

  • ホンダF1撤退の真実 ブラウンGP共同創設者が明かす「涙の会議」と奇跡の2009年

    ホンダF1撤退の真実 ブラウンGP共同創設者が明かす「涙の会議」と奇跡の2009年

    2009年、ホンダのF1撤退を受けて誕生したブラウンGPは、ジェンソン・バトンとともにドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルを獲得し、モータースポーツ史に残る”奇跡”を成し遂げた。

    しかし、「1ポンドでチームを買収し世界王者になった」という有名な逸話の裏側には、700人の雇用を守るための決断や、ホンダ撤退を涙ながらに告げた日本人幹部との会談など、これまであまり語られてこなかった壮絶なドラマがあった。ブラウンGP共同創設者のニック・フライが、その舞台裏を振り返った。

    「予算削減」だと思っていた会議で告げられたF1撤退
    2008年11月28日、ロンドン・ヒースロー空港近くのホテルで、フライとロス・ブラウンはホンダ幹部との会談に臨んだ。

    当時、世界金融危機の影響で自動車業界は大きな打撃を受けており、フライたちは40~50%規模の予算削減を覚悟して会議へ向かった。

    しかし、そこで告げられたのは想像をはるかに超える決断だった。

    「ホンダはF1を続けることができない」

    小さな会議室で対面した日本人幹部は涙をこらえながら説明したという。

    フライは当時を振り返り、「ホンダにはF1で素晴らしい歴史があり、その決断がどれほど苦しいものだったかは痛いほど伝わってきた」と語る。

    しかし、その直後に待っていた次の会議では、約20人のホンダ関係者を前に「700人の従業員に工場の電気を消して帰宅するよう伝えてほしい」という趣旨の説明を受けた。

    フライは、その提案を受け入れることはできなかった。

    「そんなことはできない。時間をくれ。別の方法を探させてほしい」

    そう強く訴えたことが、ブラウンGP誕生への第一歩となった。

    ホンダ F1 撤退

    700人の雇用を守るために始まった買収交渉
    ホンダ撤退後、フライとブラウンはチーム存続へ向けて動き始める。

    最大の課題は、ホンダが巨額を投じて築いたF1チームを、なぜ譲渡する必要があるのかを納得してもらうことだった。

    そこで提示したのが「チームを閉鎖する方が高くつく」という試算だった。

    風洞設備や工作機械など、F1専用施設は他業種では価値が低く、700人規模の退職金や設備処分費用まで含めると、チームを解散させる方がはるかに多くの費用が必要になる。

    ホンダは外部コンサルタントを起用して試算を検証。その結果、フライらの見積もり以上に閉鎖コストが高額になることが判明した。

    こうして、チーム譲渡という道が現実味を帯びていった。

    一方で、フライ自身も大きなリスクを背負うことになる。

    妻のケイトとは、後に象徴的な会話を交わしたという。

    「もし全財産を失って、一生ツナ缶だけで暮らすことになっても大丈夫か?」

    夫婦で出した答えは、「それでもやってみよう」だった。

    「挑戦だと思った。信じることが何より大切だった」とフライは振り返る。

    エンジンもスポンサーもない開幕前
    チーム存続が決まっても、問題は山積みだった。

    ホンダ製エンジンの継続使用を打診したものの断られ、新たなパワーユニットを探さなければならなかった。

    最終的にフェラーリとメルセデスの双方がエンジン供給を申し出る中、メルセデス製エンジンを搭載することが決定した。

    一方でスポンサーも不足し、バージンとの契約がまとまったのはオーストラリアへ向かう飛行機に乗る直前だったという。

    資金不足から約400人を削減し、残されたスタッフは24時間3交代制で開幕戦へ向けてマシンを完成させた。

    日本人若手エンジニアが生み出したダブルディフューザー
    ブラウンGP成功の象徴として知られるダブルディフューザー。

    しかしフライは、その発想が「若い日本人空力エンジニア」から生まれたことを明かしている。

    会議で最も若い立場だったそのエンジニアは、規則を文字通り読み込み、新しい解釈を提示した。

    当初は周囲も「そんなことはできない」と考えたが、議論を重ねる中で画期的なアイデアであることが判明する。

    英語を第二言語として読んだからこそ、先入観にとらわれず条文をそのまま解釈できた可能性もあったという。

    ただしフライは、「世界王者になれた理由はダブルディフューザーだけではない」と強調する。

    「ウィリアムズもトヨタも同じコンセプトを持っていた。」

    「違いはチームだった。」

    互いを支え合い、自分の仕事だけでなく仲間の仕事も助ける文化こそが最大の強みだったと語っている。

    ブラウンGP

    開幕戦メルボルンで起きた”奇跡”
    2009年開幕戦オーストラリアGP。

    ブラウンGPはほとんどテストを行えないまま現地入りした。

    クラッシュすれば交換部品がない。

    給油担当者は実戦で給油した経験すらなかった。

    それでも予選から圧倒的な速さを見せ、ジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロが開幕戦で1-2フィニッシュを達成する。

    フライは「あらゆる場面で失敗する可能性があった。それでもチーム全員が期待以上の仕事をした」と振り返る。

    「喜びではなく安堵だった」世界王者獲得
    シーズン後半になると資金不足から開発競争で苦戦し、レッドブルが急速に迫ってきた。

    バトンには世界王者獲得への重圧がのしかかり、ブラジルGPまでタイトル争いは続いた。

    そして世界王者が決まった瞬間、フライが感じたのは歓喜ではなかった。

    「まず感じたのは、とてつもない安堵だった。」

    「ああ、終わった。やり遂げることができた。」

    そう振り返る彼にとって、2009年は単なるチャンピオン獲得のシーズンではなく、700人の雇用を守り、チーム全員で不可能を可能にした一年だった。だからこそ今でも、「ブラウンGP最大の武器はダブルディフューザーではなく、互いを信頼し、挑戦を許容するチーム文化だった」と言い切るのである。

  • ブラウンGP F1マシンBGP001が初集結 グッドウッドで“ファミリー再会”

    ブラウンGP F1マシンBGP001が初集結 グッドウッドで“ファミリー再会”

    ジェンソン・バトンとロス・ブラウンが週末、グッドウッド・メンバーズ・ミーティングで再会した。2009年のタイトルをもたらしたブラウンGPのBGP001シャシー3台が初めて一堂に会し、F1史に残る異例の成功物語がよみがえった。

    ホンダ撤退後にわずか1ポンドで誕生したチームが頂点に立った“奇跡”は、単なるレースの記憶にとどまらない。今回の再集結は、その象徴的な瞬間を改めて現代に引き戻すものとなった。

    BGP001が初めて揃った歴史的瞬間
    グッドウッドの歴史的な舞台を背景に、ブラウンGPの3台のBGP001が初めて同じ場所に並んだ。中心にいたのは、2009年にドライバーズタイトルを獲得したジェンソン・バトンであり、自身のキャリアを決定づけたマシンに再び乗り込む機会となった。

    この“ファミリー再会”は単なる展示にとどまらず、F1における最大級のアンダードッグストーリーの象徴として、強いノスタルジーを呼び起こした。

    ホンダ撤退から頂点へ ブラウンGPの軌跡
    ブラウンGPの物語は2008年末のホンダ撤退から始まった。ロス・ブラウンがチームを買収し、翌2009年シーズンに参戦すると、そのパッケージは瞬く間に競争力を発揮した。

    ジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロのコンビは、シーズン中に8勝、15回の表彰台を記録し、ドライバーズおよびコンストラクターズの両タイトルを獲得。その年のうちにチームはメルセデスへ売却され、わずか1シーズンで歴史に名を刻む存在となった。

    バトン「再びあの感覚を味わいたい」
    バトンは今回の走行を前に、当時の感情を次のように語っている。

    「メンバーズ・ミーティングに初めて参加できるのが楽しみだ。しかもブラウンBGP001のような特別なマシンで走れるなんてね」

    「最後にこのクルマをドライブしたのは2019年で、本当に感情がこみ上げる瞬間だったし、とても非現実的な感覚だった。またあの気持ちを味わえるのが待ちきれないし、それがグッドウッドならこれ以上の場所はない」

    単なるデモ走行ではない“時間の再現”
    エンジンに火が入った瞬間、その場に流れたのは単なるデモンストレーションの空気ではなかった。2009年という特異なシーズンの記憶が重なり、まるで時間が一瞬だけ巻き戻されたかのような感覚を生み出していた。

    ブラウンGPの成功は偶然ではなく、限られた条件の中で最大の結果を引き出した稀有な例である。その象徴であるBGP001の再集結は、F1の歴史においても特別な意味を持つ出来事となった。

  • ブラウンGP戦略は通用するのか?2026年F1に向けたアルピーヌの選択

    ブラウンGP戦略は通用するのか?2026年F1に向けたアルピーヌの選択

    2009年に奇跡的にF1タイトルを獲得したブラウンGPと、2026年に向けて準備を進めるアルピーヌF1チームの戦略には、いくつかの明確な共通点がある。

    両者はいずれも、当初はワークス体制を前提としながら、最終的にはメルセデス製パワーユニットを採用し、全面刷新される新レギュレーション初年度に挑むという進路を選択した。

    また、旧レギュレーション最終年の開発を早期に切り上げ、将来のマシンにすべてを注ぎ込む決断を下した点も一致している。

    ただし、アルピーヌ自身は、2009年のブラウンGPのような“おとぎ話”をそのまま再現できるとは考えていない。

    「先行集中投資」はもはや特別な賭けではない
    アルピーヌのマネージングディレクターであるスティーブ・ニールセンは、ブラウンGPが成功した理由の一つとして、当時としては異例だった“翌年型マシンへの全振り”を挙げている。

    「2009年当時、翌年のクルマにすべてを注ぐのは珍しい判断だった。ブラウンGPは1年を犠牲にして、他より1年先を行くマシンを走らせた」

    「当時は多くのチームが夏の終わり頃になってから切り替えていた。だからブラウンGPは、実質的に6か月分のアドバンテージを持っていた」

    しかし現在は、その戦略が完全に共有知となっているとニールセンは語る。

    「今では誰もがその手法を知っている。我々は確かに早く切り替えたが、他のチームも同様の判断をしている」

    「タイトル争いをしていない限り、シーズン最後まで開発を続けているチームはいないと思う」

    「ブラウンGPの再現が可能かと聞かれれば、理論上は可能だ。ただし、そこへ至るためのトリックは、もう誰もが知っている」

    つまり、アルピーヌの2026年戦略は奇策ではなく、現代F1における合理的な選択肢の一つに過ぎない。

    2026年の現実的な目標は“毎週ポイント争い”
    2025年のアルピーヌは、時折ポイント争いに加わる週末こそあったものの、多くの場合は後方に沈んだ。その現状について、ニールセンは次のように語っている。

    「毎週レースをして、できればポイントを争いたい」

    「2025年は、ポイントを争えた週末もあったが、あまりにも多くのレースで後方に沈んでいた」

    「それは、このチームが属すべき場所ではない。エンストンの伝統でもないし、アルピーヌが望む姿でもない」

    「だからこそ、毎週ミッドフィールド上位でポイントを争う必要がある」

    2025年の“痛み”が示した他チームとの差
    アルピーヌは、開発を早期に打ち切った代償として、2025年後半に他チームがアップデートで前進する姿を見守るしかなかった。ただしニールセンは、そこに前向きな兆しも見出していた。

    アメリカGPでハースF1チームが大規模アップデートを投入した際の心境を、彼はこう振り返る。

    「正直に言えば、『これは彼らを前に進めるだろう』と思った」

    「同時に、彼らが2026年型マシンをまだ風洞に入れていないという事実が、私には心強く感じられた」

    F1の風洞設備や開発プロセスがほぼ共通であることも、ニールセンは強調する。

    「各チームの風洞は基本的に同じだ。同じシステムを使い、同じプロセスを踏んでいる」

    「何千回もの反復を重ねながら、正しい解に近づいていく非常に遅い作業だ」

    「だからこそ、早くその開発ラインに乗ったチームほど前に進める。遅れてスタートすることは、確実にペナルティになる」

    アルピーヌF1チーム

    順位目標を語らない理由
    ニールセンは、数年単位の計画や具体的な順位目標を掲げること自体に懐疑的な姿勢を示している。

    「私は100レース計画や3年計画、5年計画を信じていない」

    「優秀な人材を集め、正しい場所に配置し、明確なミッションを与え、全員を同じ方向に向かせる。それだけだ」

    「ひたすら地道に作業を続け、最終的に他より良い仕事ができることを願う。それがF1だ」

    「来年、我々が何位に並ぶのかは分からない。1位かもしれないし、10位かもしれないし、20位かもしれない」

    「ただ一つ言えるのは、今年より良いクルマを作っているということだ」

    もう一つのブラウンGP要素──レギュレーションの抜け穴
    2009年のブラウンGPを決定づけたのは、ダブルディフューザーというレギュレーションの隙を突いた革新だった。新レギュレーション初年度には、同様の想定外が生まれる余地がある。

    その可能性について、ニールセンは次のように語る。

    「未知の未知は常に存在する」

    「自分たちが気づいていない解決策を、誰かが見つけているかもしれない」

    「我々は前向きだし、早く走らせたいと思っている」

    「より良いクルマでレースをし、ジャンプアップを果たしたい。それができれば、そこから本当の開発戦争が始まる」

    2009年の奇跡が再び起きるかどうかは分からない。しかし、2026年に向けたアルピーヌの選択が、明確な論理と覚悟に基づいたものであることだけは確かだ。結果を示すのは、やはりストップウォッチしかない。

  • ルーベンス・バリチェロ、ブラウンGP誕生の電話は「人生最高の一日だった」

    ルーベンス・バリチェロ、ブラウンGP誕生の電話は「人生最高の一日だった」

    ルーベンス・バリチェロは、2009年に誕生したブラウンGPが自身のF1キャリア、そして人生そのものにおいて特別な存在だったと振り返っている。消滅寸前だったチームが存続することを告げられた、一本の電話――その瞬間を、彼は「人生最高の一日だった」と表現した。

    元ホンダのチームがロス・ブラウンによって救われ、奇跡のシーズンへと動き出したあの日。

    バリチェロにとってブラウンGPの誕生は、単なるチーム再編ではなく、走る場所を失うかもしれなかった不安から解放された、感情あふれる転機だった。

    ブラウンGP誕生から17年が経った。2008年末、ホンダがF1撤退を決断したことで、チームは消滅の危機に瀕していたが、ロス・ブラウンはわずか1ポンドでチームを買収。数百人の雇用を守り、F1の舞台にチームを残す決断を下した。

    その後すぐにメルセデスとのエンジン契約をまとめ、2009年シーズンに向けてグリッド屈指のパワーユニットを確保する。そしてドライバー体制も維持され、バリチェロは自身17年連続となるF1シーズンを、すでに3年間在籍していたチームで迎えることになった。ブラウンGPには、確かな基盤が築かれていた。

    2009年のブラウンGPを支配的な存在へと押し上げたのが、革新的なディフューザーだった。ライバルチームがコピーするのに数か月を要したこの設計は、序盤戦で決定的なアドバンテージをもたらし、ブラウンはドライバーズ、コンストラクターズの両選手権で主導権を握った。

    チームメイトのジェンソン・バトンは、BGP001に初めて乗ったテストの段階でタイトルを狙えると感じたという。一方、バリチェロはマシン開発面で大きな役割を果たし、バトンから「最高のチームメイト」と評される存在だった。2007年、2008年の苦しいシーズンを通じて積み重ねてきた経験とフィードバックが、2009年の成功に生かされた。

    シーズン序盤、ブラウンGPは開幕7戦中6勝という圧倒的なスタートを切ったが、その勝利はいずれもバトンのものだった。バリチェロ自身の勝利はシーズン後半、バレンシアとモンツァで訪れることになる。

    そんな成功の原点にあったのが、チーム存続を告げられたあの日の電話だった。バリチェロは2011年のブラジルGPで、当時を次のように振り返っている。

    「電話が鳴って、相手はロスだった。彼は『準備はいいか?』と言った。すごく良い話にもなり得るし、すごく悪い話にもなり得る、とね」

    「『金曜日に来られるか?』と聞かれて、僕は『いつでも行けるよ、ロス』と答えた」

    「彼は『契約はある。来年も走ってほしい』と言ったんだ。家の中に入って、僕は泣いてしまった。その瞬間への感謝の気持ちでいっぱいだった。妻のシルヴァナに伝えた時、あれは人生最高の一日のひとつだった」

    ルーベンス・バリチェロ F1 ブラウンGP

    2009年の最終順位とキャリア最後の勝利
    2009年シーズン序盤は目立った結果を残せなかったバリチェロだが、シーズンが進むにつれてペースを上げていき、逆にチームメイトの勢いがやや落ち始めた時期と重なった。

    転機となったのはバレンシアでの勝利だった。その2戦後、フェラーリのティフォシに囲まれたモンツァで、彼は再びトップステップに立つ。ティフォシの前での勝利は、彼にとって特別な意味を持つものだった。

    それが彼にとって最後のF1勝利であり、通算11勝目でもあった。その事実には、どこか運命的なものがあった。

    最終的にチャンピオン争いには加われなかったものの、2009年はバリチェロがいかに才能あふれるドライバーだったかを改めて示すシーズンとなった。ドライバーズタイトルを獲得することなくキャリアを終えた中で、彼は「最も偉大な未戴冠ドライバー」のひとりとして、その名を刻んでいる。

  • ジェンソン・バトンが語る意外な真実「最高のF1マシンはブラウンGPではない」

    ジェンソン・バトンが語る意外な真実「最高のF1マシンはブラウンGPではない」

    ジェンソン・バトンは、2009年にブラウンGPでF1ワールドチャンピオンを獲得したが、彼自身が選ぶ“最高のF1マシン”は意外にもあの伝説のBGP001ではなかった。

    現在すべてのモータースポーツから引退したバトンは、改めて自身のキャリアを振り返り、2011年に駆ったマクラーレンMP4-26こそが「F1で運転した中で最高のシングルシーターだった」と明かした。

    バトンは2000年から2017年まで306戦を戦い、15勝・50回の表彰台・8回のポールポジションを記録した。2009年はそのうち6勝を挙げたキャリア唯一のタイトルシーズンだが、本人の評価は別のマシンに向いている。

    ホンダ撤退から“奇跡の王者”誕生へ…ブラウンGPの激動の2009年
    2008年末、ホンダは世界的金融危機の影響でF1からの即時撤退を発表。チーム存続は風前の灯火となったが、ロス・ブラウンがわずか1ポンドで買収し、ブラウンGPとして再出発した。

    メルセデスが土壇場でエンジン供給を決めたことで、設計段階から大きな変更を強いられたが、それでもチームは開幕前最後のテストを欠席した状態からシーズンへ突入した。
    しかし、車体後部のダブルディフューザーが大きな武器となり、バトンは開幕7戦で6勝という圧倒的なシーズン前半を築いた。

    ブラジルGP時点でセバスチャン・ベッテルの追撃を15ポイント差で振り切り、1戦を残して初のワールドチャンピオンに到達。ブラウンGPも同年のコンストラクターズタイトルを獲得し、チーム唯一のシーズンで歴史的成果を残した。

    ジェンソン・バトン ブラウンGP

    それでもバトンにとって“最高の1台”はBGP001ではなかった
    キャリアの頂点をもたらしたブラウンGPのマシンについて、バトンは「素晴らしい思い出」とした一方で、“ベストカー”には挙げなかった。

    バトンは次のように語っている。

    「僕にとって最高のマシンは2011年のマクラーレンだった。F1で運転した中で、あれがベストのシングルシーターだ」

    さらに2004年のBARホンダもお気に入りだという。

    「2004年のBARホンダはフィーリングが本当に良かった。フレキシブルなリアウイングがあって、V10エンジンのパワーは信じられないほどだった。僕は10回の表彰台を獲得したけど、勝利には届かなかった」

    そしてブラウンGPについてはこう振り返る。

    「みんな『あれが最高のマシンだったはずだ』と言うけど、2008年のハイダウンフォースから2009年はローダウンフォース規定になったからね。ブラウンは他より優れてはいたけど、極端に速いわけではなかった。弱点もあった」

    ジェンソン・バトン マクラーレン MP4-26

    2011年マクラーレンMP4-26──“最強ではないが最高に手に馴染むマシン”
    2011年といえば、レッドブルのRB7が圧倒的な速さでシーズンを席巻し、セバスチャン・ベッテルが13勝を挙げた年だ。しかし、バトンはその“最強マシン”の陰で、自身にとっての“最高マシン”を操っていた。

    MP4-26はRB7には及ばなかったが、バトンはシーズン2位を獲得。全19戦中12回の表彰台、最終9戦中8回の表彰台という安定性を発揮し、キャリア最多の年間表彰台数を記録した。

    この事実こそ、バトンが“性能が最強=最高”とは考えていなかったことを象徴している。

    ダブルディフューザーと低開発、それでも勝てた2009年の“特異性”
    バトンは2009年の強さについて、あのダブルディフューザーの存在が決定的だったと語る。ホンダが撤退前に開発していたアイデアで、ウィリアムズやトヨタも類似の設計を導入し、他チームは抗議したものの規則上は合法とされた。

    しかしブラウンGPは資金難でシーズン中の大規模アップデートがほとんどできず、後半戦になるとライバルの猛追を受ける形となった。
    それでも序盤の大量得点で逃げ切った点に、この年の“特殊性”がある。

    引退を迎えて改めて見えた“本当に好きなマシン”
    バトンはキャリアを通してウィリアムズ、ベネトン、ルノー、BAR、ホンダ、ブラウンGP、マクラーレンと渡り歩き、F1で306戦を経験した。
    その長い道のりの中で、彼が最後に選んだのは、タイトルをもたらしたブラウンではなく、**2011年マクラーレンという「自分の手に最も馴染んだマシン」**だった。

    結果ではなく“ドライビングの感覚”を基準にしたこの選択は、バトンらしい冷静な視点と職人肌のレーサー気質を感じさせる。

  • 2026年のF1は大波乱?フェラーリ代表がブラウンGP再来を警告

    2026年のF1は大波乱?フェラーリ代表がブラウンGP再来を警告

    フェラーリ代表フレデリック・バスールは、2026年のF1シーズンがブラウンGPのような支配的かつ予測不能な展開になる可能性があると語った。

    2026年には新たな一連の抜本的な技術レギュレーションが導入される。各チームがマシン開発の最終段階に入る中で、F1全体に極度の不確実性が漂っている。

    新しい50:50のV6ハイブリッドによるさらなる電動化や空力の変更が前面に押し出され、スポーツ全体に大きな変革が訪れる可能性が広く受け入れられている。

    2009年には、レギュレーションの大幅な見直しにより、消滅したホンダのワークスチームを引き継いだ新興のブラウンGPが開幕から圧倒。最終的に両タイトルを制した。

    そしてバスールは、このシナリオのようなことが現実に起こり得ると考えている。

    「誰にも予測はできない」とバスールはThe Raceに語った。

    「2009年にブラウンが他をコンマ4秒速いなんて、誰も予測していなかった。彼らは突然現れたんだ」

    「今回も分からない。タイヤ、燃料、エンジン、シャシーが同時に大きく変わるのは初めてだからだ」

    「スポーティングレギュレーションもエネルギー配分などで異なっていて、そのすべてが重要になる」

    新しいF1のハイブリッドエンジンでは、ほぼすべてのラップでエネルギーをセーブする必要があるだろう。これはドライバーに新たな責任を課すことになる。

    バスールは、これによってF1にユニークな新しいダイナミクスが生まれると認めている。エンジンのパフォーマンスが様々な要素によって良くも悪くもなる可能性があるからだ。

    「今日のエンジンを見れば、パフォーマンスの90%は純粋なパワーの話だ」と彼は言う。

    「だが来年は、よりドライバビリティやターボラグといった要素が重視されると思う。最もパワフルなエンジンを持つチームがドライバビリティもターボラグも最高かもしれないし、そうではないかもしれない」

    「あるエンジンはモンツァで最高のパフォーマンスを発揮し、別のエンジンはモナコやブダペストで強い、というシーズンになる可能性もある」

    「これはターボエンジンと自然吸気エンジンの時代に戻るようなものだ。F1にとってはエキサイティングだと思う」

    2026年 フォーミュラ1カー

    バスールは、2009年の「ダブルディフューザー」のように、新レギュレーションの解釈次第で再び“抜け穴”が見つかり、勢力図を変える可能性があるとも語る。

    「エンジンについて言えば、信頼性や適切な運用を心がけることが重要だ」と彼は説明する。

    「ただ、もうエンジン単体で差をつけられる時代ではない。来年は別の話だ」

    「タイヤでうまくやるチームがあれば、その影響が仮にコンマ5秒あっても、いまのようにエンジンのパワーで埋め合わせることはできない」

    「だから現在と似た部分もあるが、エンジンが新たに重要な要素として加わることになる」

    「さらに、ダブルディフューザーのようなシャシー面での抜け穴もあり得るだろう。それがチャンスを生むかもしれない」

    バスールは、来年のフェラーリはあらゆる面で完璧なマシンでなければならないと認識している。今年マクラーレンが見せた圧倒的な支配力を見てきたからだ。

    マクラーレンMCL39は群を抜いた存在であり、対照的にマラネロのSF-25は数々の設計上の欠陥を抱えてパフォーマンスを損ねている。

    この状況がバスールに、2026年にベストカーとなるための“魔法の弾丸(シルバーバレット)”は存在しないという考えを与え、すべての分野で改善を積み重ねる方針を持たせている。

    「我々は同じアプローチを続ける必要がある」と彼は言う。

    「マクラーレンは今季素晴らしい仕事をしているが、ポテンシャルでは我々に対してコンマ2〜2.5秒先行している」

    「ただしそれは、彼らが0.3秒の魔法の武器を持っているということではない。0.02秒の差を生む要素が10個あるということだ」

    「だからこの考え方を維持しなければならない。誰か一人を替えれば魔法のように0.3秒速くなるわけではない。あらゆる分野で改善を重ねる必要がある。我々は今日、このメンタリティを持っていると思う」

    「もしもある時点で『我々はもうそこに到達した』と確信してしまったら、それは終わりの始まりだと思う」

  • キアヌ・リーブス F1の新たな語り部 映画界からモータースポーツの最前線へ

    キアヌ・リーブス F1の新たな語り部 映画界からモータースポーツの最前線へ

    俳優として世界的な人気を誇るキアヌ・リーブスが、近年はF1界でも注目を集めている。

    2023年のドキュメンタリー『Brawn: The Impossible Formula 1 Story』でナレーターと製作総指揮を務めた彼は、2026年にF1参戦予定のキャデラック・チームを追う新シリーズの企画にも関わっており、“F1アンバサダー”としての存在感を高めている。

    F1ファンの間ではおなじみになりつつあるリーブスだが、彼がどのようにしてF1の語り部となったのか──その歩みを振り返る。

    ブラウンGPへの情熱がすべての始まり
    リーブスがF1ドキュメンタリーに本格的に関わったのは、2023年に配信された『Brawn: The Impossible Formula 1 Story』(ディズニープラス)。わずか1ポンドで買収されたブラウンGPが、F1デビューシーズンの2009年にタイトルを獲得し、翌年には売却されたという驚異の実話を描いたこの作品で、彼はインタビュアーとしてロス・ブラウン、ニック・フライ、ジェンソン・バトンらの心の内に迫った。

    「事実だけでなく、当事者たちがどう感じていたのかを掘り下げたかった」と語るリーブスの姿勢は視聴者に好評を博し、同作はエミー賞も受賞した。

    この成功がきっかけとなり、リーブスはF1新規参戦を目指すキャデラック・チームを主題とした新たなドキュメンタリーの製作にも携わることに。2026年開幕前のリリースが予定されている。

    子どもの頃からのF1ファン
    では、そもそもリーブスのF1愛はどこから来たのか。本人によれば、「子どもの頃からF1が大好きだった」とのこと。

    「毎シーズン全部を追っていたわけじゃないけど、レースを観るのが好きだったんだ。ある時、友人が“1ポンドで買われたチームがタイトルを獲った2009年のシーズンを知ってる?”って話してくれて、それがブラウンGPのことだった。それを聞いて、もっと知りたいと思ったんだ」と、彼は『talkSPORT Drive』の取材で明かしている。

    その“もっと知りたい”という好奇心が、のちにブラウンGPドキュメンタリーへとつながった。

    リーブスは北米F1ファンの象徴的存在
    リーブスのように「物語をきっかけにF1に夢中になった」というファンは、北米──特に米国で急増中だ。Netflixの人気シリーズ『Drive to Survive』がF1の舞台裏を可視化し、新たなファン層を呼び込んだのと同じ構図である。

    F1はかつて“敷居が高く、排他的”という印象が強かったが、リーブスのような著名人が情熱をもってその魅力を伝えることにより、より多くの人々が関心を寄せるようになったのだ。

    “ただのゲスト”ではない、本物のレース愛好家
    リーブスがF1のパドックに姿を現すのは珍しいことではないが、彼のモータースポーツへの関わりは表面的なものではない。2009年にはロングビーチGPのセレブレースで優勝経験があり、最近ではインディアナポリス・モーター・スピードウェイでトヨタGRカップ車両をドライブしてプロデビューも果たした。

    さらには自身のバイクメーカー「ARCH Motorcycle」を共同設立するなど、二輪・四輪を問わず「走る」ことに情熱を注いでいる。

    キアヌ・リーブス F1 キャデラック

    2026年、キャデラックと共に再びF1へ
    次なる挑戦となるキャデラックF1のドキュメンタリーは、2026年のF1開幕前に公開予定。かつてブラウンGPの奇跡を伝えたリーブスが、今度は米国メーカーの“F1挑戦”をどのように語るのか、注目が集まっている。

    スター俳優にして本物のレース愛好家──キアヌ・リーブスは、F1における新しい“伝道者”の形を体現している。

  • ブラウンGPの伝説的F1マシン マイアミGPで約5億5千万円で落札

    ブラウンGPの伝説的F1マシン マイアミGPで約5億5千万円で落札

    2009年のF1シーズンを席巻したブラウンGPのマシンが、2025年F1マイアミGPの週末に開催されたオークションで380万ドル(約5億5000万円)で落札された。今回売却されたのは、現存するわずか3台のBGP 001のうちの1台である「シャシー001/01」。Bonhams Carsを通じての出品だった。

    このマシンは、F1史上屈指の“アンダードッグ・ストーリー”の象徴とされる。

    2008年末、ホンダがF1から撤退したことを受けて、ロス・ブラウンとニック・フライがチームを1ポンドで買収。メルセデス・ベンツをエンジンサプライヤーに迎え、翌年から参戦を開始した。

    革新的なダブルディフューザーを武器に、ジェンソン・バトンが開幕7戦中6勝を挙げる快進撃を披露。シーズンを通じて圧倒的な強さを見せ、ドライバーズおよびコンストラクターズ両選手権を制覇した。シーズン終了後、メルセデスがチームを買収し、ワークス体制に移行。その後は8年連続でコンストラクターズタイトルを獲得し、ルイス・ハミルトンとニコ・ロズベルグが計7度のドライバーズタイトルを分け合うなど、黄金時代を築くこととなった。

    Bonhams Carsのマイアミ担当セールス責任者であるルイス・フランケルは、オークション前に次のように語っていた。

    「このマシンは、まさにF1における“おとぎ話”の象徴であり、革新的な設計が限界をいかに打ち破れるかを示した存在です」

    「シャシー001/01はモータースポーツ史における貴重な一台であり、世界中のコレクターを魅了することは間違いありません。マイアミGPという舞台で、この唯一無二のマシンを出品できることを光栄に思います」

    マイアミGPの代表であるタイラー・エップも、次のように述べている。

    「Bonhams Carsとのパートナーシップを継続できたことを嬉しく思います。今年のイベントも、さらに成功を収めるでしょう」

    「南フロリダには強いカーカルチャーが根付いており、マイアミのファンやコレクターたちは、クラシックカーから最新モデルまで幅広いクルマに情熱を注いでいます。今回のような特別な出品物を手にできる機会は、週末の熱いレースとあわせて、ファンにとって大きな魅力になるはずです」

    ブラウンGP F1

    今回落札されたシャシー001/01は、2009年にルーベンス・バリチェロが実際にドライブした車両で、その後、チャンピオンとなったバトンに贈られた。当初、チームはレプリカの提供を提案していたが、バトンはそれを好まず、法的手続きの末に本物が渡された。なお、バトンが実際にシーズン中にドライブしていたのはシャシー002であり、こちらはロス・ブラウンの個人コレクションに保管されている。

    今回の落札額は380万ドルと、驚きの価格ではあったが、事前に見込まれていた450万〜650万ドルの予想レンジには届かなかった。

    この車両には、オリジナルの2.4リッターV型8気筒90度バンクのメルセデス・ベンツFO108Wエンジンが搭載されており、最大出力は18,000rpmで750馬力に達する。ただし、ギアボックス内部が欠損しているため、そのパワーを実際に駆動輪に伝えることはできない。

  • ジェンソン・バトンが王座を獲得したブラウンGPのF1カーがオークションに登場

    ジェンソン・バトンが王座を獲得したブラウンGPのF1カーがオークションに登場

    ジェンソン・バトンが、2009年にF1の栄光を手にするのに貢献したマシンが、5月に開催されるマイアミグランプリでオークションに出品される。

    ジェンソン・バトンは、2008年末にホンダがF1から撤退した後、急遽ブランド名を変更したブラウンGPチームでタイトルを獲得したことで有名である。元チーム代表のロス・ブラウン氏によって1ポンドで買収されたこの新興チームは、メルセデスのパワーユニットの供給を確保し、それをホンダ設計のマシンに取り付けた。

    しかし、その秘密兵器は、ホンダが開拓した絵車体後部の「ダブルディフューザー」と呼ばれる革新的なデザインであり、技術規則の抜け穴を利用して、ブラウンGPの車が2009年シーズンの序盤のラウンドを圧倒することとなった。

    しかし、チームはわずかな資金で運営されていたため、年が経つにつれてパフォーマンスは低下し、ライバルが追いついてきた。

    ジェンソン・バトンは、その年の開幕7回のグランプリのうち6回で優勝した後、シーズンの残り期間で表彰台に立ったのは2回だけだった。それでも最終的にブラジルグランプリでセバスチャン・ベッテルを抑えてタイトルを獲得した。

    ブラウンGPはコンストラクターズ選手権でも優勝した。

    その年の終わりにチームはメルセデスに売却され、ブラウンは2013年末に退任するまでチームに留まった。

    2009年中に6台のマシンが製造されたとみられる最初のブラウン BGP001のシャシーが、現在オークションに出品されるだ。

    このマシンをオークションに出品しているボナムズによると、「2009年シーズンの終了時点で、チャンピオンシップを制したシャシー02はロス・ブラウンに渡り、メルセデスはシャーシ03を受け取った」という。

    「契約条項により、シャシー01は世界チャンピオンのジェンソン・バトンに贈呈され、2024年まで彼の個人コレクションに残る」

    メルセデスは当初、バトンにプレゼントできるシャシーがないとして、レプリカの製作を申し出ていた。

    「コスト上の理由から2009年シーズン向けに限定生産されたため、2009年用の予備シャシーはない」とメルセデスは当時バトンに手紙を書いた。

    このことが法廷闘争を引き起こしたが、この問題は法廷闘争なしに解決され、ジェンソン・バトンはタイトルを獲得したマシンのサンプルを受け取った。

    しかし、問題のシャシーについては疑問符が付いており、最近の報道では、ジェンソン・バトンはボナムズが主張したBGP001/01ではなく、タイトルを獲得したブラジルGPの週末に運転したBGP001/02を受け取ったと主張している。

    いずれにせよ、2009年オーストラリアグランプリの優勝車であるシャシー01は、公開された唯一のブラウンGPマシンであり、5月3日にオークションにかけられる予定だ。

  • ホンダF1チームを騙し取ろうとした詐欺師アキレアス・カラキス

    ホンダF1チームを騙し取ろうとした詐欺師アキレアス・カラキス

    ホンダがF1チームを売却しようとしたとき、ロス・ブラウンとニック・フライはアキレアス・カラキスという男を口説き、数百万ドルで事業を引き継ぐと約束した。

    しかし、ブラウンとフライはその投資家について嫌な予感がしていた…彼らは世界の大手銀行でさえ見逃していた何かを見抜いていたのだ。

    ホンダのF1参戦は1960年代にまでさかのぼるが、単なるエンジンメーカーだけでなく、チームとしてのホンダの近代的な歴史は、日本のメーカーが2005年末にブリティッシュ・アメリカン・レーシングチームを買収し、チャンピオンシップへの挑戦を開始したときから始まった。

    ドライバーにジェンソン・バトンを起用したホンダは2006年ハンガリーGPで初優勝を飾り、翌年にはロス・ブラウンがチーム代表に就任した。

    しかし、かつては「大きすぎて潰せない」と言われたアメリカの金融サービスグループ、リーマン・ブラザーズの破綻が2008年に世界中に響き始めると、ホンダの幹部たちは恐怖を覚えた。

    ホンダは、資金を無駄にしないために、F1からの撤退を決断したのだ。ホンダはこのままチームを消滅させる覚悟だったが、ブラウンとチームの最高責任者であるニック・フライは、買い手を見つけるまで待つようホンダを説得した。

    ホンダF1売却計画が暗転
    2008年12月にホンダチームの売却が発表されると、当然ながら関心が集まり、多くの買い手候補の中にアキレアス・カラキスという男がいた。彼は億万長者の海運オーナーであり、「ブルネイのサンマリノ共和国大使」の肩書きも持っていたとクリスピアン・ベズリーは著書『Driven to Crime』に書いている。「ギリシャの不動産王」と粗油するメディアもあった。

    奇妙な肩書きはさておき、ブラウンとフライはロンドンにカラキスの事務所で会うことに同意したが、そこでは慈善団体、政治家、画廊などからの手紙がコーヒーテーブルの上にさりげなく置かれているように見えた。

    最初のミーティングはうまくいき、その後すぐにカラキスはブラックリーにあるチームの本拠地を訪れた。カラキスの巨大なヘリコプターを収容するためにスタッフの駐車場を空ける必要があった。

    その後、豪華なディナーや派手なパーティーが続いたが、ブラウンとフライにとっては、何かがしっくりこなかった。フライは自身の著書『Survive, Drive, Win』の中で、2人が英国の税金を払うほど「愚か」だとは信じられないとカラキスが軽口を叩いたことに衝撃を受けたと述べている。

    その奇妙な感覚は、カラキスが彼の美術品コレクションを案内してくれたときにも続いた。2人とも、問題の絵画の本物であるかどうかを判断する能力はなかったが、ブラウンもフライも、この男がこれほど印象的なコレクションを持っていることが不思議だと感じた。

    そこで十分な注意を払い、ブラウンとフライは、カラキスの過去を探るために調査員を雇い、ジャッキー・スチュワート卿にギリシャ国王に新しい友人のことを話してほしいと依頼した。

    スチュワートは、ギリシャ国王はカラキスを知らないようだと報告したが、その時までにブラウンとフライは、2人の異なる人物からカラキスを保証すると称する2通の手紙を受け取っていた。手紙の文言は不快なほど似ていた。

    そして捜査官からの報告が来た。アキレアス・カラキスという人物はこの世に存在しないが、イギリスの偽の荘園の所有権をアメリカ人に販売した罪で有罪判決を受けたステファン・コラキスという紳士についての報告があった。

    カラキスはその主張を否定しただけでなく、ブラウンとフライに、自分を理想的な買い手として設定するような、よりお世辞に近い報告書を作ってホンダに送るよう指示した。

    ブラウンとフライはこれを拒否し、この件から手を引いた。そしておそらく、調査を終えたことに感謝しているのかもしれない。

    アキレアス・カラキスアキレアス・カラキス

    カラキスの詐欺の真相が明らかになったとき、2人はさらに安堵したことだろう。「英国で最も成功した連続信用詐欺師」と呼ばれるカラキスは、英国で史上最大の住宅ローン詐欺を行い、不正に得た資金は7億6,000万ポンド以上にのぼった。

    ブラウンとフライが受け取った奇妙な手紙のような詐欺文書の作成に大きく関与したアレクサンダー・ウィリアムズという共犯者とともに、カラキスは石油王と不動産王の親戚であると主張し、銀行をだまして、価値をつり上げたオフィスの住宅ローンを組ませた。

    基本的に、カラキスはイギリス中の注目度の高い不動産を購入し、テナントの債務不履行に対する保証として香港の不動産会社が多額の前払い金を支払うと主張することで、銀行からの融資を確保した。

    クリスピアン・ベズリーが『Driven to Crime』で書いているように、カラキスは銀行家を「ワインと食事」で完全に信用させることができた。(当然のことながら、その会社は法廷において、カラキスが誰であるか知らなかったし、彼とはいかなる取引もしていないと主張することになる)。

    この試練全体を経て、最終的にブラウンはホンダの元チームに自ら投資することを決意。2009年、ブラウンGPはF1に旋風を巻き起こし、ドライバーたちはその年の17レース中8レースで優勝。ドライバーのジェンソン・バトンがドライバーズ選手権、ブラウンGPがコンストラクターズ選手権を制した。シーズン終了後、メルセデス・ベンツがチームを買収した。

    ニック・フライは自著の中でカラキスとの取引を振り返り、「今にして思えば、我々が警察と懸念を共有しなかったのは驚くべきことのように思えるが、当時は彼が大規模な犯罪行為に手を染めていると疑う根拠はなかった」と記している。

    「また、振り返ってみると、我々がカラキスを非常に早く非難し、ホンダとの取引を締め出すことができたのに、彼に数億ポンドを貸し付けたヨーロッパの大手銀行数行は、多大な犠牲を払ってまで、彼を十分に調査することができなかったことも異常なことのように思える」

    その罪により、カラキスは資産を剥奪され、禁固7年の判決を受けた。ある弁護士はこの判決を不服とし、減刑ではなく、増刑を求めた。その結果、カラキスはさらに4年の懲役刑を言い渡された。