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  • ナイジェル・マンセル 最も愛したF1マシンはFW14Bではなく「1500馬力」のFW11B

    ナイジェル・マンセル 最も愛したF1マシンはFW14Bではなく「1500馬力」のFW11B

    F1世界チャンピオンのナイジェル・マンセルが、自身のキャリアで最も愛したマシンと、最も嫌ったマシンを明かした。

    数々の個性的なF1マシンを経験したマンセルが最高の1台に挙げたのは、タイトルを獲得したウィリアムズFW14Bではなく、ホンダ製ターボエンジンを搭載した1987年のウィリアムズFW11Bだった。

    一方、マンセルが「嫌いだった」と振り返ったのはロータス時代のマシンだ。特にF1史上初のアクティブサスペンションを搭載したロータス92は、直線を走っているだけでも事故につながりかねないほど予測不能だったという。F1.comの企画でマンセルが自身の記憶を振り返り、テクニカルエキスパートのマーク・ヒューズが各マシンの背景を解説した。

    マンセルが最も愛したF1マシン ウィリアムズFW11B
    マンセルが真っ先に名前を挙げたのが、1987年にドライブしたウィリアムズFW11Bだ。

    「何よりも本当に愛していたマシンはFW11Bだった。あれはF1史上最速、あるいは史上最もパワフルなマシンだったと思う。予選用タイヤを履いて1500馬力もあった。頭がおかしくなるようなマシンだったよ」

    FW11Bは、ホンダの1.5リッターV6ターボ「RA167E」を搭載していた。ターボ全盛期を象徴する1台であり、マンセルはその強烈なパワーを「モンスター」と表現する。

    「マーティン・ブランドルが言っていたことはまさにその通りだった。あのマシンは、すべてのコーナーで僕を殺そうとしていた。だから僕はあのマシンを愛していたし、同時に嫌いでもあった。僕を殺そうとしていたからね!」

    「でも、あれをドライブすると本当にモンスターだった。モンスターだよ。マシンから降りて、自分の身体が無事だったときには、それなりにいい仕事をしたんだと分かった」

    FW11Bでマンセルは1987年シーズンに6勝を挙げた。チームメイトのネルソン・ピケを上回る勝利数を記録しながらも、サンマリノGPや日本GPでの事故などもあり、ドライバーズタイトルはピケが獲得した。

    マンセル自身がF1世界王者となるのは5年後の1992年。アクティブサスペンションを備えたウィリアムズFW14Bで圧倒的なシーズンを送り、念願のタイトルを手にした。しかし、純粋に「最も愛したマシン」として選んだのはFW14BではなくFW11Bだった。

    ホンダRA167Eが生み出した圧倒的なパワー
    F1テクニカルエキスパートのマーク・ヒューズによれば、FW11Bは1986年型FW11をベースに低くパッケージングした1987年仕様だった。

    1987年のレギュレーションでは燃料搭載量の上限が220リットルから195リットルへ削減された。そのため燃料タンクを小型化でき、FW11Bではそれに合わせた車体パッケージが採用された。サスペンションにも変更が加えられたが、基本的なコンセプトはFW11を受け継いでいた。

    最大の特徴はホンダRA167Eだった。

    1987年にはターボの過給圧が最大4バールに制限されたが、ホンダはその条件下でも強大な出力を引き出した。ヒューズによれば、RA167Eは過給圧が無制限だった1986年型エンジンを上回るほどのパワーを発揮していたという。

    マンセルが語った「1500馬力」という数字は、当時の予選仕様がいかに極端な領域にあったかを物語っている。耐久性や燃費を重視する決勝仕様とは異なり、予選では短時間の性能を最大限に引き出すセッティングが用いられていた。

    ナイジェル・マンセル ロータス92

    マンセルが嫌ったロータス92「直線でも事故を起こした」
    対照的に、マンセルが最も嫌ったマシンのひとつとして挙げたのが1983年のロータス92だった。

    「ある時期、本当にまったく楽しめず、嫌いだったマシンは、僕たちが開発していた最初のアクティブサスペンションのロータス、92だったと思う」

    ロータス92は、F1で初めてアクティブサスペンションを実戦投入したマシンとして知られる。しかし、その革新的な技術は当初、ドライバーに大きな負担を強いるものでもあった。

    「マシンが僕をコースの外へ放り出して、直線を走っているときでさえ事故を起こす原因になっていた。あれは本当にひどい経験だった」

    ロータス92のアクティブサスペンションは、油圧によって車高や姿勢を制御する先進的なシステムだった。しかし信頼性が十分ではなく、重量増加という問題も抱えていた。

    ヒューズによれば、ロータスはわずか2戦でアクティブサスペンションの使用を断念した。

    ロータス92は過渡期に生まれたつなぎのマシン
    ロータス92が特殊な存在となった背景には、1983年にチームが迎えていたエンジン移行期がある。

    ロータスはこの年からルノー製ターボエンジンの使用を開始し、そのために専用設計された93Tを用意していた。しかし当初、ルノーから2台分のエンジンを十分に供給してもらうことができなかった。

    そこで従来の自然吸気コスワースDFVを搭載するために製作されたのが92だった。

    マンセルはシーズン前半をこのマシンで戦ったが、特にアクティブサスペンション仕様を嫌っていたという。一方、ターボエンジンを搭載した93Tも競争力を発揮できず、両車はイギリスGP以降、ルノーターボを搭載する94Tへと置き換えられた。

    F1デビューを飾ったロータス81Bも「曲がらなかった」
    マンセルがもう1台、嫌いだったマシンとして名前を挙げたのがロータス81Bだ。

    これはマンセルが1980年にF1デビューを果たしたマシンでもある。

    「もう1台は、僕が初めてドライブして、グランプリの予選通過を目指したロータス、81Bだったと思う」

    「僕たちが開発していた通常のロータスより7インチ長くて、長すぎたから素早く曲がらなかった。僕たちが試していたもののひとつだったけど、あれも楽しめなかったね!」

    ロータス81Bは、標準型81のホイールベースを延長した仕様だった。

    当時のロータスはグラウンドエフェクト技術でF1をリードした79の成功を再現しようとしていたが、81は期待された競争力を発揮できず、中団で苦戦していた。

    ヒューズによれば、81が抱えていた空力上の問題のひとつとして、エンジン後端とディフューザーの間隔が小さすぎることが疑われた。そのためホイールベースを延長した81Bが製作された。

    しかし、その変更は別の問題を生んだ。

    車体を長くしたことでマシンはターンインを極端に嫌うようになり、標準型81以上に競争力を欠く結果となった。マンセルが感じた「長すぎて曲がらない」という印象は、マシンの設計上の特徴そのものだった。

    危険さも含めて愛したFW11B
    マンセルの選択は興味深い。最も成功したマシンではなく、最も強烈な体験を与えたマシンを「愛した1台」として選んだからだ。

    1992年のFW14BはマンセルにF1世界タイトルをもたらした歴史的なマシンだった。一方のFW11Bではタイトルを逃している。それでも、1500馬力級のホンダターボを操り、マシンから無事に降りること自体に達成感を覚えた1987年の経験が、マンセルにとって特別な記憶として残っている。

    そして皮肉にも、マンセルが嫌ったロータス92のアクティブサスペンションは、その後F1で急速に進化することになる。マンセル自身も約10年後、完成度を大幅に高めたアクティブサスペンションを備えるFW14Bを駆り、1992年のF1世界チャンピオンに輝いた。

  • ナイジェル・マンセル73歳 マシンを押して倒れた伝説のF1ダラスGP

    ナイジェル・マンセル73歳 マシンを押して倒れた伝説のF1ダラスGP

    1992年F1ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセルが8月8日に73歳の誕生日を迎えた。その長いモータースポーツ人生を振り返るうえで、マンセルの闘争心を象徴する場面のひとつが、1984年F1ダラスGPで見せた壮絶なフィニッシュである。

    決して諦めないドライバーとして知られたマンセルは、灼熱の市街地コースでマシンが力尽きたあと、自らコクピットを降りてロータスを押し、チェッカーフラッグを目指した。

    その直後、体力を使い果たしてコース上に倒れ込んだ姿は、今なおF1史に残る象徴的なシーンとなっている。

    ダラスでF1初ポールポジション
    1984年当時、ナイジェル・マンセルはロータスに所属していた。

    同年のダラスGPでマンセルは予選を制し、自身にとってF1初となるポールポジションを獲得。将来のワールドチャンピオンがその速さを強烈に印象づけた週末だった。

    しかし、決勝は極めて過酷なレースとなった。

    真夏のテキサス州ダラスは猛烈な暑さに見舞われ、ドライバーにもマシンにも大きな負担がかかった。さらに、市街地に設けられたコースの路面は高温によって崩壊し始め、レースが進むにつれてコンディションは悪化していった。

    残り2周でギアボックスにトラブル
    数多くのマシンが脱落するサバイバルレースとなるなか、マンセルは終盤まで走り続けた。

    残り2周の段階では5番手を走行していたが、ウォールへの軽い接触によってギアボックスがダメージを受けた。

    通常であれば、そこでレースは終わっていてもおかしくなかった。

    しかし、マンセルはチェッカーフラッグを見ることを諦めなかった。

    マシンが止まると自らコクピットを降り、ロータスを後方から押し始めた。すでに灼熱のコンディションのなかで長時間レースを戦ったあとだったが、それでもフィニッシュラインを目指してマシンを押し続けた。

    フィニッシュラインを越えた直後に倒れる
    マンセルはついにマシンをフィニッシュラインまで押し切った。

    だが、すべての体力を使い果たしたマンセルは、その直後にコース上へ倒れ込んだ。

    この壮絶な努力によって得たのは、わずか1ポイントだった。

    数字だけを見れば小さな成果かもしれない。しかし、この日の姿はマンセルというドライバーのキャラクターを強烈に示すものとなった。

    速さだけでなく、どんな状況でも最後まで戦い抜こうとする姿勢。それは後にウィリアムズで1992年F1ワールドチャンピオンに輝くマンセルのキャリアを象徴する要素でもあった。

    73歳を迎えた現在も、1984年ダラスGPでロータスを押し続けたマンセルの姿は、F1史に刻まれた「決して諦めないドライバー」の象徴として語り継がれている。

  • ナイジェル・マンセル、F1とインディカーの秘蔵品を一斉オークション

    ナイジェル・マンセル、F1とインディカーの秘蔵品を一斉オークション

    1992年F1ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセルが、自身のプライベート・コレクションから複数の記念品をオークションに出品することが明らかになった。オークションは2026年2月10日にBuddsで開催され、すべて最低落札価格なしで競売にかけられる。

    「ナイジェル・マンセル・コレクション」と名付けられた今回の出品には、マンセルの個人アーカイブから選ばれた貴重なアイテムが含まれる。

    目玉となるのは、1993年インディカー・ルーキー・オブ・ザ・イヤーのトロフィー、1992年仕様のウィリアムズ・ルノーF1フルサイズ・レプリカヘルメット(本人サイン入り)、サイン入りレーシングブーツ、そして1992年イギリスGPの限定モデルカー(こちらもサイン入り)だ。

    最も高額になると見込まれているのはインディカーのルーキー・トロフィーで、予想落札価格は2500〜3000ポンド。続いて、サイン入りレプリカヘルメットが1000〜1500ポンドと見積もられている。

    マンセルは自身のインスタグラム動画で次のように語った。

    「みなさん、こんにちは。ナイジェル・マンセルのパーソナル・コレクションが、2026年2月にBudds.comでオークションにかけられることになった」

    「僕の個人コレクションの一部を手に入れてほしい。これらのアイテムを、ファンのみなさんに大切にしてもらいたいんだ」

    「とても特別な機会だけど、もしかしたら僕がいくつか買い戻すかもしれないから、急がないといけないよ」と冗談交じりに付け加えた。


    マンセルはF1キャリアを通じて、チャンピオン獲得1回、グランプリ優勝31回、表彰台59回、ポールポジション32回、ファステストラップ30回を記録した。F1以外にもインディカーやル・マン24時間レースに参戦している。

    近年、マンセルは自身のコレクションの一部を段階的に手放してきた。2023年には、元ウィリアムズF1ドライバーが所有していた324点の記念品コレクションが、RMサザビーズのオークションで200万ポンド超で落札されている。

    当時、RMサザビーズの欧州マーケティング・ディレクターであるピーター・ヘインズは次のように述べていた。
    「カート時代からF1、インディカーに至るまで、ナイジェルが獲得したほぼすべてのアイテムを購入できるというのは、非常に異例だった。
    トロフィーは本当に素晴らしく、中には驚くほど装飾的で、製作費も相当高価だったはずのものもある」

    またマンセル自身も、「これまで、市場に出回った僕のクラッシュヘルメットは非常に少なかった。今のドライバーとは違い、当時は1シーズンに2個ほどしか使わなかったからだ」と振り返っている。

    今回のオークションは、F1とインディカーの両方で輝かしい実績を残した名ドライバーの軌跡を、実物の記念品を通して手にできる貴重な機会となりそうだ。

  • 「F1のナンバー1/ナンバー2ドライバー時代は終わった」 ナイジェル・マンセル

    「F1のナンバー1/ナンバー2ドライバー時代は終わった」 ナイジェル・マンセル

    ナイジェル・マンセルは、F1におけるナンバー1ドライバーとナンバー2ドライバーの時代は終わったと考えており、マクラーレンは今シーズン、2人の強力なドライバーの存在は「問題」となる価値があることを示している。

    マクラーレンは、予想外にもドライバーズ選手権の戦いに身を置くことになり、ランド・ノリスがマックス・フェルスタッペンを追いかけている。

    マクラーレンのMCL38は、アップグレードによる完璧な実績のおかげで、レッドブルのRB20を追い抜いて、今日のグリッド上で最速の車として浮上した。

    レッドブルを含むライバルチームは、新しいフロアをボルトで固定する際に相関関係の問題で失敗を犯したが、マクラーレンはマイアミグランプリのフロアをそのまま使用し、代わりに車の他の部分をアップデートすることでそれを回避した。

    この戦略が功を奏し、マクラーレンはコンストラクターズ選手権でレッドブルに41ポイント差をつけ、その支配権を握っただけでなく、ノリスはドライバーズランキングでもフェルスタッペンのリードを少しずつ奪っている。

    マクラーレンは、最大180ポイントを残して52ポイント差でノリスに迫る中、ピアストリがサポート役を務めることでノリスに「有利」に立つことを決定したが、ピアストリは、チームメイトにとって「白紙小切手」ではないと述べている。

    しかし、マクラーレンはハンガリーでノリスにチームオーダーを出し、ピアストリに勝利を譲り渡し、モンツァでも首位を狙ってピアストリを攻撃することを許したため、ミスを犯したと言われている。

    対照的に、レッドブルは常にフェルスタッペンの100%のサポートに徹してきた。しかし、彼のケースでは、セルジオ・ペレスがシーズンを通してペースと表彰台から遠ざかっているため、彼をサポートできるチームメイトがいない。

    ナイジェル・マンセル F1 マクラーレンナイジェル・マンセル

    ナイジェル・マンセル:マクラーレンには素晴らしいドライバーが2人いると思う
    1992年のワールドチャンピオンであるナイジェル・マンセルは、ナンバー1ドライバーとも考えられるピアストリが今後、ノリスにとって問題となる可能性があるかどうかを尋ねられた。

    「いや、そうは思わないね。今後数年間ではなく、今が問題だ!」と、ピアストリのバクーでの勝利を例に挙げながら、マンセルはTop Offshore Sportsbookに語った。

    「つまり、それは条件付きだ。私はまったく問題だとは思わない。あの若者(ピアストリ)は、フェラーリからのプレッシャーに耐えながら、あれほど多くの周回を走り、あのようなレースで勝利を収めるだけの成熟度を示した」

    「素晴らしいと思うが、同時に、マクラーレンが両ドライバーに勝利を収める能力のあるマシンを与えたことは、信じられないほどの偉業であることを理解すべきだと思う」

    「つまり、ナンバー1やナンバー2のドライバーでいられる時代は終わりました。なぜなら、互いに同等に競争力のある2台の車を供給できる能力は、本当に素晴らしいからです。

    「だから彼は素晴らしい仕事をしたんだ。そして、今後はチームにとって素晴らしいことだと思う。どちらかが問題になるとは思わない。お互いに切磋琢磨するだろうからね」

    「チームに2人の速いドライバーがいれば、チームは前進する。もしナンバー1が圧倒的な強さを発揮し、ナンバー2がそれほど強くない場合、チームは前進しない。なぜなら、常にナンバー1のドライバーに頼ることになるからだ。だから、マクラーレンには素晴らしいドライバーが2人いると思う」

  • ナイジェル・マンセルが1997年にジョーダンでF1復帰しなかった理由

    ナイジェル・マンセルが1997年にジョーダンでF1復帰しなかった理由

    ナイジェル・マンセルは、1997年のF1復帰を考えてジョーダンのテストを受けたが、最終的には引退を決断した。

    マンセルはウィリアムズの激動の1994年シーズンにわずかな出場を果たしたが、マクラーレンへの移籍はシーズン序盤にマシンとの相性が合わず不満が募った末に破談となったことで悪名高い。

    1996年末、マンセルはフルシーズンの参戦を視野に入れ、1997年シーズンを前にジョーダンのテストに参加。ジョーダンは12月のバルセロナ-カタルーニャ・サーキットで、1996年のカラーリングをまとった新車で走るチャンスを与えた。

    エディ・ジョーダン、ナイジェル・マンセルとの関係を説明
    元F1チーム代表のエディ・ジョーダンはFormula for Successのポッドキャストで、マンセルとの関係は約20年前に遡り、マンセルにジョーダン197を走らせた当時からのものだったと明かした。

    「ナイジェルとは長い付き合いだった」とエディ・ジョーダンは語った。

    「名声と富を求めてイギリスに来て若くしてシルバーストーンに住んでいた頃、私はロンドンよりもバーミンガムに惹かれた、ロンドンは私にとって大きすぎた」

    「バーミンガムにはUB40や素晴らしいバンドがたくさんいて、私はそこが大好きだった。ナイジェルはもちろん近くの出身で、彼とは1977、78、79年のフォーミュラ・フォードを通じてそれなりに親しくなった」

    「彼はデイブ・プライスのもとで、ブレット・ライリーとともにフォーミュラ・スリーのユニパート・チームをドライブしていた。驚いたのは、彼がチャンピオンに近づくことさえできなかったことだ」

    「しかし、ナイジェル・マンセルについてひとつ言えるのは、彼ほど自分の能力を絶対的に信じている人間には会ったことがないということだ。才能の量に決して匹敵しなかったし、私には才能が見えなかった」

    「つまり、彼がロータスに移籍したとき、コリン・チャップマンは彼をこの世で最も偉大な存在だと考えていたということだ。ナイジェルが彼に何を言ったのか想像もつかないが、彼が何をしたにせよ、それはうまくいった。そして彼はロータスに入った」

    「ナイジェルは…雄牛とは呼びたくないが、タフだった。雄牛と呼ぶには、首がないように見えた。頭が肩の上に乗っているように見えたからだ!」

    「それは、Gフォースと首にとって本当にハードな時代だった。当時はとてもタフだった。ナイジェル・マンセルは個人的な内なる信念を持っていた」

    「もしその内なる信念を見つけることができたとしたら、私は100パーセントについて話しているが、ナイジェルの場合、それはおそらく200パーセントくらいだった。しかし、彼はいつも何よりも自分自身を信じていた。それが彼を突き動かしたのだと思う」

    「それで、話を終わらせますが、彼はジョーダンを運転したか? そうだね、僕たちは仲間だったし、彼がやってきて、やりたいと言ったんだ。ジョーダンの運命が変わりつつあるのを彼は見ていた」

    「1997年のマシンは特に良かったし、あれでグランプリを勝てたはずだった。そのことについては今は触れないがね!」

    「だが、98年も99年も素晴らしいマシンだった。好調な時期があった。そこにナイジェルがいた。バルセロナの後、彼は私のところに来て、こう言ったんだ。僕はもう40代だ。もうあんなことはしたくない。でも、このクルマはちゃんとしたクルマだ』ってね

    「しかし、98年も99年も素晴らしいクルマだった。小さな紫色の斑点がありました。そしてナイジェルもそこにいました。彼はバルセロナの後に私のところに来て、『聞いてくれ、EJ、もう時間がないんだ。私はもう40代だ。もうあんなことはしたくない。でも、このクルマはちゃんとしたクルマだ』と言った」

    ナイジェル・マンセル「エディ・ジョーダンは非常に特別なものを作り上げた」
    マンセルは続投を選択しなかったにもかかわらずペースを維持したと広く信じられており、一部の報道によると、マンセルのベストタイムはチームメイト候補で将来有望な若手のラルフ・シューマッハからわずかコンマ3秒差だったという。

    しかし、テストから1週間後、マンセルは待望のF1復帰を果たさないことを明らかにした。当時43歳のマンセルは「バルセロナでのテストはとても楽しめたし、B&Hジョーダンチームのプロ意識と雰囲気は、これまで一緒に仕事をしたどのチームよりも素晴らしかった」と語っている。

    「エディ・ジョーダンは非常に特別なものを作り上げた。彼らの施設と1997年のマシンを見て、このチームが来シーズンに成功を収め、本格的なコンテンダーになれると素直に信じている」

    「テストのアイデアは当初、楽しむことだったが、私の競争本能がすぐさま勝ってしまい、ジョーダン・グランプリでのF1復帰が現実味を帯びてきた」

    「しかし、家族やビジネスアドバイザーと相談した結果、私のスケジュールではジョーダン・チームとスポンサーに十分な時間を割くことができないとすぐに理解するようになった」

    B&Hはマンセルの要求するサラリーを支払うために資金を提供する用意があると考えられていたが、マンセルを復帰へと向かわせるには十分ではなかった。

    その代わりにジョーダンは若いジャンカルロ・フィジケラを起用し、シューマッハとの経験不足がジョーダンの貴重なポイントや好成績を犠牲にした。

    「ナイジェルをマシンに乗せることができて光栄だったし、彼のアプローチと姿勢にとてもとても感銘を受けた」とジョーダンは当時テストについて語った。

    「ナイジェルはまだ勝者になれると信じているが、彼の決断の誠実さに感謝している。ジョーダンでの彼のためのドアは常に開かれており、彼がチームと関わる方法を模索し続けるだろう」

  • ナイジェル・マンセル 「今のF1ドライバーは本物のF1マシンを知らない」

    ナイジェル・マンセル 「今のF1ドライバーは本物のF1マシンを知らない」

    元F1ドライバーのナイジェル・マンセルは、“本物のF1マシン”でレースをすることがどのようなものかを“決して知ることはないだろう”と語る。

    1992年のF1ワールドチャンピオンであるナイジェル・マンセルは、F1の最高の時代は1980年代のマシンが超強力なターボエンジンを搭載していた時代だったと考えている。

    「F1がそこに戻ることは決してないだろう」とナイジェル・マンセルは Auto magazine にコメント。

    「あのターボマシンを走らせることは人生で最も爽快で恐ろしいことだった」

    「ウィリアムズ FW11B(1987年)。あのクルマに勝るものはない。世界のどこにもね。実施、今日のドライバーは本物F1マシンがどのような感覚かを知ることはないだろう」

    「予選では文字通り1500馬力くらいあった。BMWはもっとあったとも言われている。ストレートで6速ギアで175~180mphでスピンしていた。ドライバーとしてそれを言葉で表すことはできない」

    「全てのコーナーでマシンは文字通りドライバーを殺そうとしていた」

  • マンセルの王座獲得マシン『ウィリアムズFW14B』がオークション出品

    マンセルの王座獲得マシン『ウィリアムズFW14B』がオークション出品

    ナイジェル・マンセルが、1992年に歴史的なF1ワールドチャンピオンを獲得したマシン『ウィリアムズ FW14B』がボンナムスが開催するグッドウッド・オブ・フェステバル・オブ・スピードのオークションに出品されることになった。

    エイドリアン・ニューウェイが設計したウィリアムズ FW14Bは、F1史上最も象徴的で圧倒的な強さを誇ったF1マシンの一台。

    ウィリアムズ FW14Bに搭載されたアクティブサスペンションは、コーナーではマシンが沈み込んでグリップを高め、ストレートではわずかに車高を上げることでドラッグを減少される革新的なシステムだった。

    今回、オークションに出品されるウィリアムズ FW14Bは、1992年の13戦中で走り、そのうちの7戦でナイジェル・マンセルがドライブしたマシン。このマシンでナイジェル・マンセルは7戦中5勝を挙げ、1度の2位フィニッシュを達成。悲願のF1ワールドチャンピオンを獲得した。1980年のデビューから12年が経過しており、当時のマリオ・アンドレッティの10年を破り“デビューから最も遅いチャンピオン”となった。

    オークションを開催するボナムスによると、出品される“レッド5”の名で知られているこのウィリアムズFW14Bにはルノー製V型10気筒3.5Lリッター エンジンを搭載されており、「最初はウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングが保有された後、一人の個人所有者が決めよこまやかに管理されていた」ものだという。

    このウィリアムズ FW14Bは完全に走行可能であり、最近でも走行を行っているというが、潜在的な次のオーナーが実際に走行を楽しむためにはウイリアムズのソフトウェア・エンジニアに頼らなければならないという。

    ボナムスのモータースポーツ担当ディレクターを務めるマーク・オズボーンは「若い頃、国家ととにあった私は英国製のウィリアムズのマシン、特に“レッド5”の輝きに愛国心を持って畏敬の念を抱いていた」とコメント。

    「シャシーナンバー8はその惜しみない誇大な称賛を受けてきた最高の品種だ。そして、マンセルの手によってシーズン最初の5ラウンドを勝った」

    「FW14Bは当時から今日に至るまでF1に参戦したなかで洗練されたF1マシンの一台であり、我々ボナムスは、このようなモータースポーツにおける伝説的なマシンを託されたことを名誉に思う」

    推定落札価格は300万ポンド(約4億2600万円)あたりになると考えられている。

  • ナイジェル・マンセル 「今のF1に1980~90年代ほどの激しさはない」

    ナイジェル・マンセル 「今のF1に1980~90年代ほどの激しさはない」

    元F1ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセルは、現代の多くのドライバーが、限られたF1シートと現役F1ドライバーの寿命が長くなっていることで、新たなドライバーが自分自身を証明する機会を失っていると嘆いている。

    ナイジェル・マンセルは「F1をリスペクトしていないわけではないが、競争の激しさは80年代や90年代のようなものではない。我々はグリッドに26台のクルマを見たい。才能はあっても行き場のないF1ドライバー予備軍がたくさんいる」とインタビューでコメント。

    「長年、怪我をしてF1を後にするドライバーや交代させられたドライバーがいた。毎年、新しい血が入ってきて、乗り込むためのクルマがあった。今は枯渇している」

    「FIAは安全に関して素晴らしい仕事をしているし、マニュファクチャラーはクルマをより安全にするために密接に働いている。ドライバーはほぼ2倍のキャリアスパンとなっている。彼らにとってそれは良いことではあるが、F1に入ることを待っているドライバーには決してチャンスはやってこない」

    ナイジェル・マンセルがF1デビューした1980年のオーストラリアGPから最後のレースとなった1995年のスペインGPまでの間、レース週末やテストの間に6名のドライバーが命を落としている。

  • ナイジェル・マンセル 「ウィリアムズのラインナップは不利ではない」

    ナイジェル・マンセル 「ウィリアムズのラインナップは不利ではない」

    元F1ワールドチャンオンのナイジェル・マンセルは、近代のF1の技術の進歩のおかげで、2018年に経験の浅いドライバーラインナップを起用したウィリアムズが必ずしも苦戦するとは限らないと語る。

    今年、ウィリアムズは19歳のランス・ストロールと22歳のセルゲイ・シロトキンというF1史上で最年少ラインナップでF1を戦う。

    「コンピュターの助けがなかった数年前であれば、チームに2人の若手ドライバーがいることは懸念だっただろう」とナイジェル・マンセルは Autosport にコメント。

    「今はエンジニアからの多くのサポートがあり、多くの情報があるので、そこまで問題にはならない」

    「今のF1マシンは、ドライバーがある一定のスピードまで到達すれば、勝手に走ってくれる。彼らは多くのサポートを得られる」

    「クルマが優れており、彼らが輝けるレースがあることを願ってる。彼らがグリッドの後方に落ちないことを願っているよ」

    ウィリアムズは、若手二人に加えて、32歳のロバート・クビサをリザーブ兼開発ドライバーに起用。ロバート・クビサは、主にシミュレーターでの作業となるが、プレシーズンテストやインシーズンテスト、そして、数回の金曜フリープラクティスでの走行が予定されている。

    ナイジェル・マンセルは、ロバート・クビサの存在が、ランス・ストロールとセルゲイ・シロトキンが知識を素早く得ることに貢献していくと考えている。

    「高いレベルで競争し、勝利を挙げるには、ドライバーがどれくらい多くの経験を有しているかに左右される」

    「ワールドチャンピオンがチームメイトにいて彼らの近くで仕事をするのは興味深いことだ。本当に多くのことを素早く学ぶことができる」

    「みんなが多くの洞察力を持っている。私は常に他人から視点を得ることに関心を持っている」

  • エイドリアン・ニューウェイ 「フェルスタッペンの走りはマンセルを思い出す」

    エイドリアン・ニューウェイ 「フェルスタッペンの走りはマンセルを思い出す」

    レッドブルのエイドリアン・ニューウェイは、マックス・フェルスタッペンの走りを見ていると、全盛期のナイジェル・マンセルを思い出すと語る。

    「マックスは刺激的なニューカマーだった。彼のクルマの運転の仕方は、ナイジェルのドライビングスタイルを思い起こさせた」とエイドリアン・ニューウェイは語る。

    「マンセルの印象的なところは、常にクルマに乗っているのが彼だとわかったことだ。彼は、ほぼ言葉では例えられないドライビングスタイルを持っていた。マックスも同じだ。テレビを刺激的なものにしている」

    ナイジェル・マンセルは、その攻撃的なスタイルからテフォシからも“イル・レオーネ(ライオン)”の愛称で呼ばれていた。

    エイドリアン・ニューウェイは、ナイジェル・マンセルが1992年にF1ワールドチャンピオンを獲得したFW14Bをデザインし、密接に仕事をしていた。

    マックス・フェルスタッペンのあまりにアグレッシブなドライビングスタイルはセバチャン・ベッテルやキミ・ライコネンといったドライバーから批判されたが、フェルスタッペンはドライビングスタイルを変えることを拒否した。

    エイドリアン・ニューウェイは、そのフェルスタッペンのアプローチにマンセルの決意と頑固さを重ね合わせている。

    「『脅されるつもりもないし、自分のことをしていく。それが嫌なら、それはあなたのアプローチの問題だ』といった感じだ。それはナイジェルをとても思い出させる」