カテゴリー: アイルトン・セナ

  • 中嶋悟、F1時代の苦労とセナの知られざる素顔を語る BS日テレ『愛車遍歴』

    中嶋悟、F1時代の苦労とセナの知られざる素顔を語る BS日テレ『愛車遍歴』

    元F1ドライバー・中嶋悟が、11月29日(土)よる9時放送のBS日テレ『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』に出演する。日本初のフルタイムF1ドライバーとして“日本F1ブームの火付け役”となった中嶋が、初めての愛車からF1時代のエピソードまで、数々の思い出を余すことなく語る。

    番組は放送500回を迎えた節目での収録。ビッグゲストの登場に、MCのおぎやはぎも思わず“平身低頭”。

    矢作兼は「今日もレジェンドが来てます」と語り、小木博明も「F1ブームはこの人から。元祖ですよ」と、普段のゲストいじりを封印する様子が見られた。

    18歳で手にした初愛車フェアレディZ 父との約束を語る
    番組の定番質問「免許はいつ取られました?」から、中嶋の愛車ストーリーはスタートした。18歳で手に入れた初めての愛車は、当時人気のスポーツカー・日産フェアレディZ。18歳には高級とも言えるが、「親父との約束があって…」と購入の背景を明かし、父から息子への思いが込められていたことが語られる。

    フェアレディZでは日本各地をドライブし、その経験が後のレーシングドライバーとしての感覚や判断力につながったという。しかし、愛着のある初愛車をわずか1年ほどで手放すこととなった理由についても、番組内で語られている。

    ホンダF1テストドライバー時代の衝撃「バケモンみたい」
    国内レースで無敵を誇り、ほどなくホンダのF1テストパイロットを務めることになった中嶋。しかし、初めて触れたF1マシンに対しては驚愕の連続だったと振り返る。

    「こんなバケモンなやつ、ホントに運転するのかな」

    F1マシンの規格外の性能に衝撃を受けた瞬間や、そこからレギュラードライバーの座を勝ち取るまでの知られざる苦労も明かされる。

    F1デビュー戦は“ヘトヘト” チームメートはアイルトン・セナ
    1987年のF1デビュー戦・ブラジルGPでは、「気持ちも体もヘトヘトで…」と、中嶋は当時の緊張感を率直に語る。テレビで見ていたスターばかりが並ぶパドックで戸惑い、右往左往した初レースの記憶が紹介される。

    チームメートは“音速の貴公子”アイルトン・セナ。小木が「いつも怒っているじゃん」と印象を述べると、中嶋はセナの意外な素顔や「えらい目に遭った」という出来事についても語り、当時の関係性を振り返る。

    中嶋悟 ホンダ・NSX F1

    後半はホンダ車一色 12台中11台が同じ車種というこだわり
    ホンダで長年F1に参戦してきた中嶋の愛車遍歴は、後半になるほどホンダ車一色に染まる。特に最後の12台中11台が同一車種という徹底ぶりには、小木博明も「うわー!すごいな!ずーっとだ」と驚きを隠せなかったという。

    ホンダの高級スポーツカー・NSXの誕生秘話も語られる。開発に関わった中嶋の“何気ない一言”が、実際にデザインや仕様へ反映されたというエピソードも紹介される。

    番組情報
    【番組名】おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!
    【放送日時】毎週土曜 よる9時~9時54分(11月29日放送回ゲスト:中嶋悟)
    【放送局】BS日テレ
    【出演者】おぎやはぎ、今井優杏(自動車ジャーナリスト)
    【番組HP】https://www.bs4.jp/aisya_henreki

    【公式X】https://x.com/Aisya_Henreki

    【公式Instagram】https://www.instagram.com/bs4_aisya

    【クレジット】©︎BS日テレ

    番組は、ゲストがこれまで愛してきた車の“愛車遍歴”を通して、その人の人生を読み解くカートークバラエティ。実際に車を見て乗って語るスタイルで、毎回新たな一面が引き出される。

  • ルイス・ハミルトンとブラジル:アイルトン・セナへの憧れが育んだ第二の故郷

    ルイス・ハミルトンとブラジル:アイルトン・セナへの憧れが育んだ第二の故郷

    2025年F1サンパウロGPを前に、ルイス・ハミルトンとブラジルの特別な関係が改めて注目されている。

    アイルトン・セナへの憧れから始まった物語は、今やひとつの文化的な絆にまで発展した。名誉市民となった7度の世界王者にとって、ブラジルはただのレース開催国ではなく「第二の故郷」そのものだ。

    憧れの原点──アイルトン・セナとの出会い
    ハミルトンがまだF1ドライバーになる前、彼の心を突き動かしたのはアイルトン・セナだった。単なる成功者ではなく、「魂で走る戦士」としての姿勢が少年時代のハミルトンを魅了した。

    ハミルトンは英『Motorsport Magazine』にこう語っている。「セナは常にファイターだった。中途半端な走りは決してしない。完璧を追い求める戦士のようだった。それが僕の理想だった」。

    その崇拝は形にも表れ、彼はセナの象徴である黄色と緑のヘルメットカラーを模倣し、走り方にもその精神を宿した。ブラジルに初めてF1ドライバーとして降り立ったとき、すでに目に見えない絆が存在していたのだ。


    人と文化に惹かれて──ブラジルの“鼓動”
    ハミルトンにとってブラジルの魅力は、モータースポーツを超えたところにある。「僕がブラジルで一番好きなのは人々のエネルギーだ」と彼は2024年の『Elle Men Brasil』で語っている。「多様性に満ちた国で、ここに来ると本当に“帰ってきた”と感じる」。

    毎年11月にインテルラゴスへ戻るたび、彼は温かく迎え入れられる。ファンは彼の走りにセナの魂を重ね、「恐れずに挑み続けるレーサー」として尊敬を寄せる。その真摯な姿勢こそ、ブラジル人が最も愛する特質だ。

    ハミルトン自身も音楽や文化を通じてブラジルに溶け込み、ネイマールJr.やサーフィン王者ガブリエル・メディナなど、同国のスターたちと親交を築いている。

    インテルラゴスでの名演──2021年の伝説
    この深い関係を象徴する舞台が、サンパウロのインテルラゴス・サーキットだ。中でも2021年の週末は、ハミルトンのキャリアでも屈指のパフォーマンスとして語り継がれている。

    金曜予選で最速タイムを出しながらも、テクニカル違反により失格。スプリントでは最後尾の20番手からスタートし、わずか24周で5位まで駆け上がる。さらに日曜の決勝では10番グリッドからスタートして、宿敵マックス・フェルスタッペンを抜き去り優勝した。

    チェッカーを受けた瞬間、ハミルトンはセナを真似てブラジル国旗を掲げた。「子どものころからセナが国旗を掲げる姿を見てきた。だから僕も絶対にやりたかったんだ」と語っている。

    彼にとってそれは単なる勝利ではなく、幼少期から抱いてきた“憧れの国”への感謝の証だった。

    名誉市民としてのハミルトン
    2022年、ブラジル国会議事堂で行われた式典でハミルトンは名誉市民に任命された。これは政治家や文化人に与えられる極めて稀な栄誉である。

    式典で彼は「ついに自分もブラジル人の一人になれた」と語り、感謝の言葉をセナに捧げた。「この名誉をアイルトンと、彼の家族、そしてブラジルのファンに捧げたい。彼の目を通して、ブラジルの情熱の深さと美しさを知った」。

    それは、すでにファンが心で認めていた真実──「ルイス・ハミルトンはブラジルの一員である」──を公式に証明する瞬間でもあった。


    サーキットを超えて──社会へのメッセージ
    ハミルトンのブラジルとの関係は、今やレースの枠を超えて広がっている。彼は名誉市民としてのスピーチで「ブラジルの人々のたくましさに勇気づけられる」と述べ、「多様性と平等のために闘う人々とともに、変化を推し進めたい」と語った。

    セナの精神を受け継ぎ、社会的発信を続けるハミルトンの姿は、ブラジルにとっても大きな希望の象徴となっている。サーキットでの速さだけでなく、信念を貫く生き方こそが、彼を“本当の意味でのブラジル人”にしているのだ。

  • アンドレア・キミ・アントネッリ、ブラジルでセナの墓を訪問「世代を超える存在」

    アンドレア・キミ・アントネッリ、ブラジルでセナの墓を訪問「世代を超える存在」

    メルセデスのルーキー、アンドレア・キミ・アントネッリは、F1サンパウロGPを前に、アイルトン・セナが眠るモルンビ墓地を訪れた。イタリア出身の18歳は、セナが亡くなった12年後に生まれた世代だが、その敬意は時代を超えている。

    幼少期から「心で走るとはどういうことか」を体現したセナの名を耳にして育ったアントネッリにとって、その存在は単なる伝説ではない。勇気と信念を象徴するセナの生き様は、今もなお多くの若いレーサーの道しるべとなっている。

    アントネッリは静かな時間を過ごし、墓前で手を合わせた。その瞬間、彼が敬意を表したのはセナという偉大なドライバーの記憶だけでなく、「偉大さを追い求めるすべての挑戦者を導く理念」でもあった。

    アンドレア・キミ・アントネッリ F1 アイルトン・セナ

    若きルーキーと伝説の絆:セナの精神は今も生き続ける
    アイルトン・セナの死から30年が経とうとする今も、彼の名前はF1の原点として語り継がれている。アントネッリがその墓を訪れたのは単なる敬意の表明ではなく、彼自身のモータースポーツ人生における指針を再確認する時間でもあったといえる。

    メルセデスでF1キャリアを歩み始めたばかりのアントネッリにとって、セナの精神――「限界を恐れず、情熱を信じること」――はまさに彼が今学ぼうとしている哲学そのものだ。
    静かな祈りの中で、彼は未来へ続くドライバーとしての覚悟を新たにしたに違いない。

  • アイルトン・セナ 母国F1ブラジルGP初優勝マシン『MP4/6-1』がオークション

    アイルトン・セナ 母国F1ブラジルGP初優勝マシン『MP4/6-1』がオークション

    アイルトン・セナが1991年のF1ブラジルGPで悲願の初母国優勝を果たしたマシン「マクラーレン MP4/6-1(ホンダV12)」が、12月にRMサザビーズのオークションに出品される。

    セナにとって地元インテルラゴスでの勝利は特別な意味を持つものだった。デビュー以来10度目の挑戦で初めて母国の頂点に立ったこの一戦は、彼のキャリアの中でも最も感情的で象徴的な瞬間として知られる。

    極限の肉体的限界でつかんだ歓喜のチェッカー
    当時すでに2度のF1ワールドチャンピオンだったセナは、世界的な人気を誇るレーサーとして母国ファンの熱狂の中にいた。しかし、レース終盤には豪雨とギヤボックスの故障という過酷な試練が襲う。6速ギヤのみが残された状態で、彼は71周を走り切るためにクラッチを滑らせながらコーナーを立ち上がり、減速にはブレーキだけを頼るという極めて繊細なコントロールを強いられた。

    強烈な痙攣と疲労の中、セナは当時最先端のマシン、ウィリアムズFW14・ルノーを駆るリカルド・パトレーゼをわずか2.9秒差で振り切って優勝。レース後は力尽きてステアリングを握れず、チームクルーの助けを借りて表彰台に立つほどだった。

    マクラーレン・ヘリテージから再び公の場へ
    このMP4/6-1はその後も複数のグランプリで使用され、セナは同年このマシンの後継シャシーで3度目、そして最後のタイトルを獲得。シーズン終了後、シャシーNo.1はマクラーレン・ヘリテージ・コレクションに収蔵され、2020年にプライベートセールで現オーナーの手に渡った。

    現オーナーの購入条件として「走行可能な状態での引き渡し」が求められ、イギリスのマクラーレン専門業者ポール・ランザンテ社によって整備を受けたうえで、今回の出品に備え再始動が確認されている。

    RMサザビーズは落札価格を1,200万〜1,500万ドル(約18億〜22億円)と見積もっており、入札は12月8日から11日にかけて行われる予定だ。

    セナ神話を象徴する「最後のホンダV12」
    このMP4/6は、マクラーレンとホンダの黄金時代を象徴する1台だ。自然吸気V12エンジンを搭載した最後のホンダF1パワーユニットであり、セナのフィジカルと精神力の極限を物語るマシンでもある。

    オークション市場では、マクラーレンMP4シリーズの実走可能個体が出品されるのは極めて稀であり、とりわけ「セナ初の母国優勝」という歴史的背景を持つこの車両は、世界中のコレクターにとって“伝説の象徴”として高値が付くことは確実だ。

    このマシンの落札結果は、今後の「F1ヘリテージ市場」における価格基準をも左右するとみられている。

    アイルトン・セナ マクラーレン MP4/6-1マクラーレン・ホンダ MP4/6-1ホンダ V12 F1エンジン

  • アイルトン・セナ 自動車殿堂入り ホンダと築いたF1栄光

    アイルトン・セナ 自動車殿堂入り ホンダと築いたF1栄光

    9月25日、デトロイトで開催された自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)の殿堂入り式典において、伝説的なF1ドライバーである故アイルトン・セナが顕彰された。自動車殿堂は、自動車産業においてモビリティと革新に永続的な影響を与えた人物を称える権威ある栄誉であり、式典ではモータースポーツへの並外れた貢献と、技術革新やクラッシュ・セーフティへの影響が改めて称えられた。

    この発表を受け、アメリカン・ホンダとホンダ・レーシング・コーポレーション(HRC)はセナの殿堂入りを祝福。セナの情熱、比類なきドライビングスキル、不屈の精神は、ホンダと共にモータースポーツ史の象徴的な瞬間を築き、今も世界中のファンやエンジニアにインスピレーションを与えていると強調した。

    式典では、セナの象徴的な1992年型マクラーレン・ホンダMP4/7 F1マシンが展示され、その功績とホンダとの永遠の絆を象徴した。

    セナの現役時代にホンダF1チームのメンバーであり、現在はHRCさくらに所属する田辺豊治も出席し、次のように語った。
    「アイルトン・セナとそのご家族に心よりお祝い申し上げます。セナが我々の創業者である本田宗一郎と藤沢武夫と共に殿堂に加わることはホンダにとって光栄です。本田宗一郎氏はセナと親しい関係にあり、この知らせをきっと喜んでくれると思います」

    アイルトン・セナ F1 ホンダ(本田技研工業)1992年型マクラーレン・ホンダMP4/7が展示され、セナの功績とホンダとの絆を象徴した

    セナのF1における輝かしい実績
    ・ワールドチャンピオン 3回(1988年、1990年、1991年)
    ・グランプリ優勝 41回
    ・ポールポジション 65回
    ・表彰台 80回
    ・モナコGP優勝 6回(歴代最多記録)

    セナは1994年5月1日、イタリアのイモラで行われたサンマリノGPで首位走行中にクラッシュし、34歳の若さでこの世を去った。

    ホンダは「セナの挑戦の精神と革新への情熱は、今も我々の原動力であり、未来へと受け継がれていく」と述べ、その遺産を誇りに感じていることを強調した。

  • アイルトン・セナが使用した最後のF1ホンダV10エンジンが約3700万円で落札

    アイルトン・セナが使用した最後のF1ホンダV10エンジンが約3700万円で落札

    ホンダ・レーシング(HRC)が出品した、1990年F1最終戦オーストラリアGPでアイルトン・セナが使用したHonda V10エンジン「RA100E」の個体「V805号機」が、2025年8月15日に米国カリフォルニア州カーメルで開催された「ボナムス・クエイル・オークション」において、手数料込みで254,500ドル(約3,720万円)で落札された。

    このエンジンは、マクラーレン・ホンダMP4/5Bに搭載され、1990年10月の日本GP(鈴鹿サーキット)のウォームアップ・セッション、そして続く11月4日のオーストラリアGP(アデレード市街地コース)決勝においてセナが駆った実戦用ユニットである。

    通常、F1で使用されたエンジンは日本国内の研究所に戻され、分解・解析によって摩耗や疲労の状態が調査された後に廃棄されることが多い。しかし、このV805号機は、すでに翌1991年シーズンから投入される新型V12エンジンの開発が本格化していたため解析対象から外れ、分解されることなく保管された経緯を持つ。結果として、アイルトン・セナが実戦で使用した最後のホンダF1 V10エンジンという極めて貴重な歴史的遺産となった。

    今回の出品は、HRCが2025年4月に発表した新規事業「メモラビリア・ビジネス」の第一弾として実施されたもので、同事業は過去の貴重なレースマシンやエンジン、パーツ類を販売し、世界中のモータースポーツファンに“本物の歴史”を所有する機会を提供することを目的としている。出品されたV805号機は、HRCの熟練メカニックの手によって一基分のエンジン部品が丁寧に分解され、特製ディスプレイケースに収められた状態で提供され、さらに本物であることを証明するHRCオリジナルサーティフィケート(証明書)も付属した。

    「ボナムス・クエイル・オークション」は、カリフォルニア州モントレー半島で毎年8月に行われる自動車の祭典「モンタレー・カー・ウィーク」の一環として開催される名門オークションで、世界中からコレクターやマニアが集う場として知られる。今回の落札は、ホンダとセナによる黄金時代の象徴が新たな持ち主のもとに渡った瞬間であり、F1史に残るメモラビリアの価値をあらためて示す出来事となった。

    HRCは今後、このメモラビリア事業を日本国内でもオークションなどを通じて展開していく予定だ。

    ホンダ F1 V型10気筒 エンジン アイルトン・セナ

  • アイルトン・セナ F1界に刻まれた走りと優雅な美学

    アイルトン・セナ F1界に刻まれた走りと優雅な美学

    アイルトン・セナのレガシーは、伝説的なウェットコンディションでの巧みな走りと、磁力のように人を惹きつける存在感、そして時代を超えたスタイルが融合したものだ。その影響は、文化、エレガンス、インスピレーションという領域にまで広がり、フォーミュラ1を超えて今も息づいている。

    アイルトン・セナのレガシーは、スピード、精密さ、そして時代を超えたスタイルで測られる。161戦で41勝、65回のポールポジション、3度のワールドチャンピオン。しかし、統計は物語の一部にすぎない。

    アイルトン・セナは本能と精密さ、そして絶対的な献身という稀有な組み合わせでレースを戦い、その資質は、彼が走るすべてのラップで際立っていた。

    1984年モナコGPでの新人離れした雨の走り、アラン・プロストとの壮大なタイトル争い、そして“不滅のラップ・オブ・ザ・ゴッズ”と称される1993年ドニントンでの走り──アイルトン・セナは今も響き続ける瞬間を生み出した。彼のレースは純粋なマスタリーだったが、コックピットを離れても、そのルックスは人々の視線を釘付けにした。控えめで静かな落ち着きは、どんな大胆な主張よりも雄弁だった。

    F1での10年間、セナのスタイルは流行を追うことはなく、むしろ流行を作り出した。新人時代のフレッシュな印象から時代を超えたエレガンスの象徴へ──そのシンプルさ、自信、存在感は、彼のドライビングと同じく今も象徴的である。

    偉大さの初めての兆し(1984年)
    偉大なドライバーたちと同じく、象徴的な偉業の前にはルーキー時代がある。1984年、雨に濡れたモナコの市街地で名を上げ始めた頃、セナのオフ・トラックでの姿は集中と機能性そのものだった。ショートヘア、シンプルなシャツ、無地のジャケット。そこに計算されたスタイルはなく、ただ自らの仕事に没頭するドライバーの飾らない姿があった。

    しかし、彼がサーキットで印象を残すようになるにつれ、次第にすべての視線が彼に注がれ、その控えめなスタイルもまた彼の伝説とともに進化していった。

    アイルトン・セナ F1 トールマン時代ルーキーイヤーのセナの代名詞は、集中の眼差しだった。

    ブラック&ゴールドからボールドへ(1985〜1987年/ロータス)
    ロータスへの移籍により、セナはもはや新人ではなくなった。勝利を重ねるにつれ、そのルックスも洗練されていった。マシンの黒と金のカラーリングは、セナに洗練された視覚的舞台を与え、オフ・トラックでの彼の姿にも洗練さが漂った。

    髪は少し長くなり、自信も表情に現れ、パドックでの少年のような笑顔とレース当日の鋼のような表情の対比が、彼のイメージを決定づけた。

    1987年、チームが鮮やかな黄色と青のカラーリングを導入すると、その新しいカラーは彼のトラック上でのイメージを一変させ、グリッド上での存在感を高めた。それは彼の象徴的なヘルメットの色調と完全に一致し、F1史上もっとも認知度の高いビジュアル・アイデンティティの土台となった。

    アイルトン・セナ ロータス時代ロータス時代の洗練されたルックス

    決定的なルック(1988〜1993年/マクラーレン)
    1988年、マクラーレンへの移籍は黄金期の始まりだった。4シーズンで3度のワールドタイトル、雨のレースでも無敵だった。マクラーレンの80〜90年代の象徴的な白と赤のカラーリングに合わせ、セナのルックスは瞬く間に彼の最も知られる姿となった。

    オフ・トラックでは、鮮やかなポロシャツや柔らかなニット、パリッとしたシャツ、テーラードデニム、サングラス、そして手首にはタグ・ホイヤー。派手さよりも品質を重視し、時代に左右されないアイテムを選んだ。

    最も注目すべきは、象徴的な青いナシオナル(Nacional)キャップが初めて登場した時期であることだ。スポンサーからの贈り物として始まったこのキャップは、すぐに彼のアイデンティティの一部となり、パドックや表彰台、そしてレース以外の場面でも数え切れないほどの写真に登場した。

    これらのルックスは、セナがスポーツを完全に支配し、世界中で認知されるイメージを築き上げていた時期に着用されていた。

    アイルトン・セナ F1 マクラーレン時代セナはパドックでサングラスをかけていない姿はほとんど見られなかった。

    ウィリアムズでの永続的なスタイル(1994年)
    1994年、ウィリアムズでのセナは依然としてこのスポーツのベンチマークであり続けた。彼のスタイルは完全に確立され、ポロシャツ、ジーンズ、カジュアルなローファーといったリラックスした装いは、ブラジルのルーツを映していた。

    青いキャップは健在で、マクラーレン時代からの栄光と最終章をつなぐ糸となっていた。その頃には、もはやスポンサーのロゴとしてではなく、鎧の一部として、そして世界中のファンが彼を象徴する存在として認識されていた。

    イモラで悲劇が起こり、F1をはるかに超えて影響を与えることになる男の人生が終わった。最後の写真では、ナシオナルキャップをかぶり、表情は穏やかで、彼は常にそうであったすべて──精密さ、目的意識、そして忘れられない存在感──を体現していた。

    彼の影響は、レースの記録だけでなく、スタイリッシュに生き、競争することの意味を世界に示した方法においても今も生き続けている。

    アイルトン・セナ F1 ウィリアムズ時代セナの有名なキャップは1994年のウィリアムズブルーのマシンとマッチしていた(左)。1994年ポルトガルでのテストでは重ね着していた(右)

    セナのスタイルの影響は今も続く
    セナがキャリアを通じて着用した黄色いヘルメットは、モータースポーツ史上もっとも認知度の高いデザインのひとつだ。青と緑のストライプの影響は、数十年経った今もグリッドに色濃く残っている。

    世代を超えて、多くのドライバーが彼に敬意を示し、そのデザインを取り入れてきた。現役ドライバーの中ではルイス・ハミルトンがセナをアイドルと呼び、ブラジルでは特別仕様の装備やウェアでオマージュを捧げてきた。2024年には、サンパウロGPでセナのチャンピオンマシンを走らせ、その後ブラジルの家族と温かく交流し、彼への敬意とその家族からの感謝が形となった。

    今季のモナコGPでは、アイザック・ハジャーがセナをモチーフにしたヘルメットを使用し、彼の存在と影響力が死後も長くパドックに息づいていることを鮮やかに想起させた。

    ブラジルの現役スター、ガブリエル・ボルトレトのヘルメットもまた、黄色を基調に緑と青を配し、同胞の英雄に敬意を表している。

    ルイス・ハミルトンとアイルトン・セナ2011年ブラジルGPで特別仕様のヘルメットを着用し、セナに敬意を表したルイス・ハミルトン
  • アイルトン・セナが使用した最後のホンダ V10 F1エンジンがオークション出品

    アイルトン・セナが使用した最後のホンダ V10 F1エンジンがオークション出品

    ホンダ・レーシング(HRC)は、1990年のFIAフォーミュラ・ワン世界選手権(F1)において、McLaren MP4/5Bに搭載されたHonda V10エンジン「RA100E」のうち、アイルトン・セナがアデレードでの最終戦で使用した個体「V805号機」を、2025年8月15日に米国カリフォルニア州カーメルで開催される「ボナムス・クエイル・オークション」に出品すると発表した。

    このメモラビリアは、HRCが2025年4月に新たな事業として発表した「メモラビリア・ビジネス」の第一弾にあたる。同事業は、過去の貴重なレースマシンやエンジン、部品の一部を販売し、モータースポーツを愛するファンに“本物の歴史”を所有する機会を提供することを目的としている。

    今回出品されるV805号機は、HRCの熟練メカニックの手により丁寧に分解された一基分のエンジン部品が、特製ディスプレイケースに収められた状態で出品される。この個体は1990年10月の鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリのウオームアップ・セッションにおいてセナが使用し、続く11月4日のオーストラリア・グランプリ決勝でも実際に使用されたものである。本物のレース用エンジンであることを証明するHRCのオリジナルサーティフィケートも添付される。

    アイルトン・セナが使用したホンダ V型10気筒 F1エンジン

    通常、レースで使用されたエンジンは日本の研究所に戻されて分解・解析され、摩耗や疲労の度合いなどを検証したのちに廃棄されるケースが多い。しかし、このV805号機は当時すでに翌1991年シーズンから投入されるV12エンジンの開発が始まっていたため、V10エンジンは解析対象とならず、分解されることなく保管された。つまり、アイルトン・セナが実戦で使用した最後のHonda F1 V10エンジンであり、きわめて貴重な歴史的遺産である。

    出品先となる「ボナムス・クエイル・オークション」は、毎年8月にカリフォルニア州モンタレー半島で開催される“Monterey Car Week(モンタレー・カー・ウィーク)”の一環として行われる。モンタレー・カー・ウィークは、サンフランシスコから南へ約150kmに位置する地域で開催されるヒストリックカーとレースマシンの祭典であり、コンクール・デレガンス(Concours d’Elegance)をフィナーレに、一週間にわたってヒストリックカーパレード、オーナーズクラブの集い、クラシックカーの品評会、ヒストリックレース、そして各種オークションが連日開催される。世界中からマニアやコレクターが集う中でも、ボナムス社のオークションは特に格式が高いとされている。

    HRCは今後、このメモラビリア事業を日本国内でもオークションなどを通じて展開していく予定だ。

  • アイザック・ハジャー F1モナコGPでアイルトン・セナに敬意を表したヘルメット

    アイザック・ハジャー F1モナコGPでアイルトン・セナに敬意を表したヘルメット

    アイザック・ハジャーは、伝説的なアイルトン・セナに敬意を表した特別仕様のヘルメットを携え、F1モナコGPでデビューを果たす。

    アイルトン・セナの全盛期をリアルタイムで見ることなく、彼の死後に生まれたハジャーだが、このモータースポーツ界の偉大な3度のワールドチャンピオンに対して、モンテカルロで特別な形で敬意を示すつもりだ。

    レーシングブルズの一員であるアイジャック・ハジャーはSNSでこのトリビュートを公開し、「モンテカルロの王に敬意を表す」とコメントした。

    そのヘルメットには、セナの象徴的なデザイン――黄色をベースに緑と青のストライプがあしらわれており、モナコでのセナの偉業へのオマージュが込められている。モナコで記録した6勝と5度のポールポジションに関する要素も取り入れられ、優勝した年(1987年、1989年、1990年、1991年、1992年、1993年)やポールラップタイムなどが記されている。

    F1の舞台に足を踏み入れようとしているハジャーにとって、このヘルメットは単なるデザインではなく、F1の歴史へのリスペクトを示すものだ。そしてそれは、アイルトン・セナが世代を超えて多くのドライバーに今なお多大な影響を与えていることの証でもある。伝統と感動が交差するF1モナコGP、その週末に加わるもうひとつの特別な物語に注目が集まる。

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  • アイルトン・セナの死 F1設計者エイドリアン・ニューウェイに残る罪悪感

    アイルトン・セナの死 F1設計者エイドリアン・ニューウェイに残る罪悪感

    アイルトン・セナの命を奪った悲劇的な事故について語る中で、エイドリアン・ニューウェイは自らの感情を言葉にした。

    1994年5月1日、F1界にとって永遠に忘れられない日となった。サンマリノGP決勝の序盤、ウィリアムズに移籍したばかりのアイルトン・セナが、タムブレロ・コーナーでコントロールを失い、コンクリートウォールへ激突。3度のワールドチャンピオンに輝いた伝説のドライバーは、そのまま帰らぬ人となった。

    その悲劇の瞬間を、当時ウィリアムズのチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイが、自身の著書『How To Design A Car』(2017年)で振り返っている。

    エイドリアン・ニューウェイ:アイルトン・セナには、ある種のオーラがあった
    ニューウェイは1990年代初頭、ウィリアムズF1カーの主任設計者を務め、テクニカルディレクターのパトリック・ヘッドとともに1994年のFW16を設計しました。しかし、1993年まで認められていた電子制御システムが冬のレギュレーション変更で禁止され、ウィリアムズの優位性は失われていった。

    アクティブサスペンションからパッシブサスペンションへの変更は、特に大きな障害となり、1994年のマシンはシーズンスタートから不安定な状態だった。しかし、ウィリアムズがマシンをより扱いやすく、運転しやすいものに磨き上げる前に、セナはイモラでクラッシュして亡くなってしまった。クラッシュの正確な原因は、いまだに完全には解明されていない。
    セナと共に過ごしたのはわずか数ヶ月だったが、ニューウェイは彼を高く評価している。

    「フランク(ウィリアムズ)は彼を偶像として崇拝していた。それは当然のことだった。彼は、史上最高のドライバーの一人だっただけでなく、ある種のオーラをまとっていたからだ」とニューウェイは言う。

    「ちょっと陳腐に聞こえるかもしれないが、彼と一緒にいてみれば、その意味が完全に理解できる」

    「誰か特別な人と一緒にいるという感覚があった。それが彼の評判によるものなのかは分からないが、そう感じたのは事実だ」

    タンブレロで医療チームがセナを治療する様子をテレビ画面で呆然と眺めていたニューウェイは、耳にした音とその時の感情が今でも心に強く刻まれていると語る。

    「もうひとつ、私の脳裏に焼き付いているのは、観客の騒音だ」とニューウェイは語る。

    「クラクション、警笛、タンバリン。タンブレロで起こった悲惨な事故にもかかわらず、興奮した観客の騒音が絶え間なく続いていた。イタリアグランプリの象徴であるその音は、今でも私の背筋を震わせる」

    エイドリアン・ニューウェイ、アイルトン・セナの事故に対する罪悪感について語る
    ニューウェイとヘッド、そしてフランク・ウィリアムズはイタリアで過失致死の罪に問われ、3度の裁判を経て全員が無罪となりました。ニューウェイは「責任は感じているが、有罪とは思わない」と記している。

    ニューウェイは、セナの要望に応じて、彼がシャシーの内側に指をぶつけないように、ステアリングホイールを少し下げたことを明らかにした。

    設計部に指示を出した後、ニューウェイは、この変更が FIA のコックピットテンプレートに違反するという情報を得たため、ステアリングコラムの直径を 4mm 縮小するよう設計部に指示した。しかし、この変更は、クラッシュの時点で何らかの理由で機能していなかったことが後に判明した。

    セナの衝突前にステアリングコラムに故障がなかったことを証明するテストを行ったニューウェイは、自分たちとウィリアムズが十分ではなかったと感じた点を説明した。

    アイルトン・セナ F1

    「剛性と強度を維持するには、壁の厚さを増やさなければならないというのは、単純でよく知られた工学の法則だ。しかし、それは行われていなかった。壁の厚さは増やさなかった」と彼は語った。

    「また、コンポーネントに非常に鋭い角があると、その部分に非常に高い応力が発生し、その応力によってコンポーネントは最終的に亀裂や疲労が発生し、その疲労亀裂は最終的にコンポーネント全体に広がり、故障の原因となることも、単純でよく知られた工学の法則だ」

    「つまり、その直径の縮小には 2 つの非常に悪い設計上の問題があった。結局、パトリックと私がその責任を負った」

    「自問自答します。そうしなければ、あなたは愚か者だ。まず最初に自問すべきことは、『自分の決定の結果、誰かが命を落とすような事態に関与したいのか?』その答えが『はい』なら、次の質問は『自分が責任を持つ設計チームの一員が、マシンの設計でミスを犯し、そのミスによって誰かが命を落とす可能性があることを受け入れるか?』だ」

    「イモラ以前、ばかばかしい話だが、私は自分自身にそのような質問をしたことがなかった。モータースポーツを続けたいと思うなら、自分自身と折り合いをつけなければならない。どんなに努力しても、ミスが絶対にないとは保証できないからだ」

    「レースカーの設計とは、設計の限界に挑戦することだ。そうしなければ、競争力はない。そして、レース中の判断もある。何らかの理由でマシンに損傷があった場合、ドライバーにリタイアを指示するか、走行を続けるかを判断しなければならない」

    「判断が保守的すぎると、理由もなくマシンをリタイアさせてしまうことになる。一方、判断が過度に強気すぎると、ドライバーが事故を起こし、その結果は予測できない」

    「決して簡単な判断ではない。アイルトンについて罪悪感があるかとよく聞かれる。もちろんある。偉大なドライバーを死に至らしめたマシンを設計したチームの幹部の一人だったのだから。そのステアリングコラムが事故の原因だったかどうかに関係なく、その部品はマシンに採用すべきではなかった、悪い設計だったという事実から逃れることはできない」

    「パトリックと私が導入していたシステムは不十分だった。それは議論の余地はない。設計事務所内に安全確認システムがなかったことが露呈した」

    「しかし、私が最も罪悪感を感じているのは、ステアリングコラムの故障が事故の原因となった可能性ではなく、私がマシンの空力性能を台無しにしてしまったことだ」

    「アクティブサスペンションからパッシブサスペンションへの移行を失敗し、空力的に不安定なマシンを設計してしまった。アイルトンは、そのマシンでは不可能なことを試みた。パンクしたかどうかに関わらず、空力的に不安定なマシンで、より速いものの凹凸の多いインサイドラインを選んだことで、彼でさえもマシンをコントロールすることは困難だっただろう」

    「今になっては、『もっと時間があれば』と後悔している。イモラまでに、私は問題を理解していた。アイルトンにふさわしいマシンを提供するには、風洞モデルを開発し、そのパーツをマシンに組み込むための時間が必要だった。しかし、そのチャンスは私たちから奪われた」